AI時代を迷走中……「加速し続ける世界で僕らはどう生きるかChatGPT vs 未来のない仕事をする人たち」感想

日々雑記

おひさしぶりです。もう四日もブログ更新を明けてしまったんですねぇ。
次はどんなブログを書こうかなぁと悩んでいました。
今年は少し作品を書いて、公募に送ってみようかなぁとか。
資格の勉強をもっとしようかなぁ、なんて思っていました。

でもそれってAIにもできるようになっていくんですよね。
SNSでブログ記事をAIに書かせるコードを公開している方がいて少し嫉妬してしまいました。
何かをまとめるくらいの仕事ならChatGPTにもできます。最近では創造性のある分野も彼らがこなすようになってきました。
AIの方が綺麗で早くて、そのうち人間よりも面白い文章を打ち出すようになっていくでしょう。

堀江さんが書いたこちらの本を拝読いたしました。
この本を読み終えてAI時代に人間にできることって何だろうと、私の経験から考えてみたんです。


演劇とAI

演劇であれば、いつかAIが舞台上に立つ時代がやってくるでしょう。
役者が人間であることって必ずしも必要なことではないです。
機械が演劇をすれば、役者が台詞を間違えたり、噛んだり、素が出てしまう、転倒や滑落という動作の不具合……つまりはハプニングがなくなります。
観客はいつでも安定した間違いない演劇を見ることができる。

でもふと思ったんです。
劇を見に行く人の中には初日から千秋楽まで、なんどもチケットを取って、何度も同じ筋書きを見る人がいます。
そういう人たちって、一回一回の公演の違いを楽しんでいるんです。

ふと挟まれるアドリブや台詞の言い回しの違い。起こったハプニングやそれをどうカバーしたのか。
それらは人間だからこそ生まれる「違い」なんです。

文化祭の時に面白い演出をしている劇がありました。
二人劇において、一日目と二日目で役を入れ替える、という演出です。

秋だ! 文化祭だ! 茨苑祭公演の時間だよ!

そんな演出ですから、もちろん二人の役者は脚本を「全て」覚えなければなりません。
入れ替えることで、役者の違いが際立って、面白いなぁと感じました。
二人の演技を比べられるんです。
どちらが優れている、とかではなくこっちの表現もあっちの表現も、どちらも面白くて正しくて、二人がやることでさらに脚本の解釈に深みが出るなぁ……といった感じ。

ダブルキャスト、という手法も演劇を人間がやる面白さなのだと気付きました。

もし機械も人も舞台に立つ時が来たら、演劇は何度も見に行くということが増えていきそうだなぁ。

美術とAI

このブログで使用しているこのイラスト。AIがつくりました。
「酒、桜、夜」と打ち込んで、なんどか試した中で最も好きだったものを採用したんです。

美術もAIに取って代わられるんだと、意見を目にします。
AIはどんなイメージも作ってしまいます。
私が最もびっくりしたのは、ゴッホの独創的な筆使いやキュビスムでさえAIが学習して創出してしまうことです。

そんな美術ですが、最近Youtubeでよくメイキング動画を目にするようになりました。
メイキング動画の背景には、画家たちがどんな思いを込めたのか、どういう意図でこの手法、この色を選んだのかを解説してくれます。
時には雑談形式で他愛もないことをお喋りして、そんな話から作品に新たな思い付きを書き込んでいく。

絵なんてAIにも書ける……?
けれども絵の制作過程を魅せることができるのは人間ならではなのかなと思いました。
Youtubeで作家を見に行く人たちは平面の作品にバックストーリーを現在進行形で感じ、作品という窓から作家と出会いに行っている。

作品と一緒に作家という人間性を売っているんです。
作家というキャラクター像に神性を感じたり、逆に共感を覚えるからこそ、作品を買いたいという欲が出てくる。
これも人間がAI時代にできる生存方法だと思います。

文章とAI

文章やライターこそAIに取って代わられる分野であると思います。
文字を書くのはもはや人間の専売特許ではなくなった。

今手に取った作品、ブログ記事、SNSの投稿が既にAIが書いたものかどうかさえ分からなくなっています。
それでも人間は目の前の文字を読むことを辞めないのはなぜでしょう。

文章には偏りが強く出ます。そんな偏りを求めて人間は文章を読むんだと思っています。
精神不安定な人が書いてるSNSは「面白い」「共感する」「心配」などと心を揺さぶられます。
昨日まで元気な投稿をしていた人が唐突に「死にたい」と呟けば、会ったことが無くても画面の向こうを気にする。
過度なフェミニズムや偏向的な政治思想の人と言い争う人は絶えない。
関わらなければいいのに、と文字を起こしながら関わりに行くお節介な人間もいる。
直接的な接触はしなくとも、そういった偏りのある人を何度も見てしまうこともあるでしょう。

この「波」が人間の面白さと思いました。

読書ノート15冊目「人間失格」太宰治

個人的な解釈ですけど、太宰治の作品て、波があって面白いんです。
自己に酔っている文体の時もあれば、技巧を凝らした詩作のような文章の作品もあって。
人間失格は極限まで自己をさらした作品だと思いますし、斜陽も彼の生い立ちがあったことでしょう。
太宰治という一人の作家を、その作品から、時を超えて波を見つめる感覚です。
だから私は彼の作品がどれも好きなんですよね。

彼の敬愛する芥川龍之介の「地獄変」で描かれた良秀は「見たものしか書けない男」でした。
人間もそうです。基本的には見たもの感じたもの考えたことしか書けない。
そしてその「書けないこと」は体調や心理状態、環境にすごく左右されて、より一層の制限を受けていく。

文章を書く人にとっての生存戦略でAIにはできないことって、この「自己を曝け出す」ということだと感じました。
自分の思考の変遷や成長、感情の起伏や体調に左右される文体って人間にしか出せない。

AI時代に生きていく

現在のブログ更新の方法は常に新しい発見や経験を積まなければなりません。
成果が出なければ更新できませんでした。しかし残念ながら日々前進できるとは限りません。
一歩進んで二歩下がって、立ち止まることもあって。
泣きながら消した記事も沢山ありました。

成果が出た時だけじゃなく、そんな四苦八苦の経過も、これからは掲載していこうかなと考えました。
今思うと消してしまった記事も勿体ないのかもしれません。

技術革新が進んだって、人間はAIに負けないぞ! という気持ちで更新していきたいと思います。
今日はそんなこと思いながら、いつもと違った形で感想を書かせていただきました。


昨日食べたチーズケーキです。美味しかった。

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