文学フリマ東京38 サンプル「スケッチブックの軌跡」(3月21日掲載)

作品投稿

少しずつですが、文学フリマへの準備を進めている今日この頃です。
初参加なこともあって、右も左もわからないですが、なんとか一作品の執筆を終えました。
今回はお試しともあり、推敲の終わったところまでを、サンプルとしてブログに掲載してみようと思っています。

勿論、イベント当日までにお品書きなどを作成します。
初参加ですが、頑張ります!

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予告なく文章が変更される可能性があります。

サンプル文掲載(予告なく変更される可能性があります)

 故郷へと帰る電車の中で、深く帽子をかぶった青年、佐藤博人は自身の心が沈んでいくのを感じていた。一つ、また一つと目的の駅に近づくたびに、つい辺りを見回してしまう。電車の中に自分を知っている人間がいるのではないかと。あまりに周りを探り過ぎると、不審な人物とみなされてしまうから、帽子を目深にかぶり、目線の動きだけであたりを探る。まるで逃亡犯のようだと自覚して一層心苦しくなった。帰ってこなければよかったと後悔もし始めている。

 しかし、帰らないわけにはいかないのだ。長らく面倒を見てくれた祖父の死。その死に目に会えなかったせめてもの償いに、葬式くらいは顔を出さなければいけない。

 どうせ、いつかは帰らなければならないとはわかっていた。心の準備ができる前に、その機会が訪れてしまっただけだ、博人はそう意気込んで、席を立つ。駅への到着を告げるアナウンスが鳴った。電車が止まる。一拍置いて、開ボタンを押さなければならなかったのだと思い出した。遅れて開いた扉から、冷たい風が流れてくる。

 帰ってきてしまった、と博人は思った。少し煙ったく重苦しい空気。青いままの枝葉が焼かれたような。身体の中にあった都会の空気を溜め息として吐き出した。しばらく歩けば鼻が慣れて重苦しさは感じなくなっていった。朝早く電車に乗ったから、時間はまだ正午。博人はなおも、周囲を見渡しながら歩いていた。寂れた商店街を通り過ぎる。かつて通った中学校を通り過ぎた。足早に、大股で歩いていた。いつ知り合いから声を掛けられるのか恐ろしくて仕方なかった。

 心配していたことは起こらないまま、博人の歩が実家へ近づいていく。庭にあるバスケットゴールが輪郭を正しく、大きく見えてくる。塗装の剥がれ具合や錆の赤み。古びているが日に当たって眩しく、博人の目に焼き付いた。ゴールの足元には伸びた雑草が空へと手を伸ばしている。

 玄関を開けると猫が飛び出した。博人が帰っていない間に、飼いだしたらしい。猫は不審者を見つけたように博人をじっと見た。鼻を近づけた後、踵を返して家の中へ入っていった。まるで家に入ることを許されたようだった。

「……ただいま」

 今は両親とも家にいない。返事がない挨拶を律儀に声に出してから、玄関を跨いだ。靴をそろえてから、自分のものだった部屋に直行し、仕事道具を広げる。部屋は家を出ていった時と変わらぬまま。そしてリビングから部屋の中は見えない。それが博人にとって居心地がよかった。

 鞄からスケッチブックを取り出す。机の引き出しに仕舞われた適当な筆記用具と色鉛筆。水彩画材を広げようとしたところで、猫がいたんだったと思い直し、仕舞った。窓から庭が見える。庭にある、バスケットゴールをスケッチブックに描く。もうずいぶんと描きなれたゴールは出ていったあの日よりも一層古ぼけていた。当然だ。今はもう、誰も使っていないのだから。

 ある程度の当たりを描いてから、何かが足りないと博人は思った。

 鉛筆を置いた。色鉛筆のふたを開ける。実家にいたころは、父親の眼を盗んで練習に使った色鉛筆。もっと長さがそろっていた気がする。なぜか短くなっていた。おまけに赤鉛筆がない。誰かが絵を描いたのだろうか。そんなことを考えていると足元を猫が通った。気が付くと部屋は綺麗なオレンジ色に染まっていた。

「ただいまぁ」と母の声が響く。

「博人、いるんだろう? おかえり、あとただいまぁ」

 母は返事が返ってくるまで挨拶をする人だ。博人が父と喧嘩した時も、落ち込んだ時も、挨拶だけは欠かさなかった。

「おかえり、母さん。それからただいま」

「今日はお前の好きなハンバーグとシチューだよ。帰ってくるのが楽しみで、多めに材料買ったんだから」

 そう言って猫の頭を撫でながら、買い物袋の中の具材をテキパキと冷蔵庫にしまっていく。

「悲しいことがあった時は、腹いっぱい美味しいものを食べるんさね。おじいちゃんも、その方が喜んでくれる」

「通夜ぶるまいでも食事出るだろ?」

「何言ってんのよ。おじいちゃんはうちのご飯が一番だって言ってくれてたんだから。葬式で出されるご飯より、あったかい我が家のご飯の方が喜ぶわよ」

 母はにっこり笑った。頬の袋が丸く大きく浮き上がる。いつも母の笑顔は実家の中心。我が家で一番の頑固者は母だ。けれども祖父も、父も、博人自身もすっかり、この笑顔にほだされてしまうのだ。

「父さんが帰ってくる前に、仕事道具は仕舞っときなね」

 母が言った。そうだった、と思い直して自分の部屋に向かう。机の上には描きかけのゴールがある。ちょうど紙の上に西日が差し込む。猫はその上で日向ぼっこを始めてしまった。博人のいないうちに、この部屋の主は、すっかりこの新参者になってしまったようだ。スケッチブックを見つける父の顔が想像できたが、今は絵によって稼いでいるのだから、とそのままで放置することにした。

 父は昔気質な人だった。絵描きで飯は食えないと最後まで博人に反対した。口論の末に博人は半ば強引に実家を飛び出した。そこから多くの苦労をしたけれども、念願かなって今はイラストレーターとして仕事をしているのである。

「あんなに反対してたけどね、お前のことが心配だっただけなのよ。あの人は、あれ、ツンデレってやつなのよ」

 そういうところが可愛いんだけどね、と母は笑っていた。母の語る父の顔と、博人に見せる顔は随分と差異がある。母の前では随分と人情豊かな人のようだ。その夜行われた葬儀でも、父は喪主を、極めて厳格な顔で執り行っていた。息子としての責任か、老化による顔面筋の衰えか。祖父の死に顔を見て、泣きながら、しかしにっこりと無理に笑った顔を見せる母とは、対照的だった。葬儀を終えて重役から解放された父が、帰宅早々に酒瓶を取り出した。飲みかけだった。酔いの回り始めた父は、お前も飲め、とグラスを差し出す。

「じいさんは、母さんの笑った顔が本当に好きだった。笑って送り出してくれと、最期はずっと言っていた」

 辛口の日本酒を嗜みながら、口の緩んだ父が零した。博人はこの日初めて父と酒を呑んだ。祖父とも飲みたかったが、ついにその時は訪れなかった。参列者の話では、祖父もいつか博人と呑むことを楽しみにしてくれていたらしい。口に含んだアルコールが鼻の奥を通って目の裏に刺さるようだった。後悔が静かに胸を満たしていた。父はそんな博人を察してか、博人を責めるようなことは言わなかった。

 祖父の最期は静かだったという。母も、父も眠りについた後、誰にも知られずに息を引き取った。最初に気が付いたのは猫だった。翌朝、鳴き続ける猫に気付いた母が、父を起こしたのだという。猫は安らかに眠る祖父の首元にしがみついていた。体躯は立派な成猫であったが、その時ばかりは祖父の冷えた肌に口吸いをしており、まるで母猫から乳を授かろうとしているようだったそう。

 猫に名前はない。ある時祖父が拾ってきて、そのまま居ついているそうだ。大人しく、また律儀な猫で、誰にも教えられずともトイレやご飯を知っていたらしい。祖父が死ぬまで、鳴き声すら聞いたことがなかったという。

 酒を呑んだ父がこんなに雄弁に語ると博人は思わなかった。これが母に見せていた顔なのだろうか、と相槌を取りながら聞いていた。終始、言葉の節々に上擦ったような声も聞き取れた。涙を流したいのだろうか、博人の前では恥ずかしいのか、目線は全く合わなかった。夜に包まれた庭先を見ているばかりだった。

 自分がいると張るしかない見栄もあるだろうと、博人は会話の切れ目で水を取りに行くふりをして立ち上がった。

「……そういえば、絵描きの仕事はまだ続けているのか」

 ついに触れられたくなかった話題に父が触れる。一つ唾を飲み込んで、吐き出すように言葉を紡いだ。

「続けてるよ。まだまだ給料は安いけど、最近は案件も増えてて、立派に稼げているつもりではあるよ」

 そうか、と呟いて、父は組んでいた足を入れ替えた。何か言いたげに、けれども渋るように呼吸を繰り返している。

「不安定な仕事だろう。大変じゃないのか」

 父の声色は実家を飛び出したあの日を彷彿とさせる。酒で少しばかり気の短くなっていた博人は、説教なら勘弁してくれ、と言いたげな表情を隠すことはしなかった。しかし父は説教をしたいわけではなかったらしい。語気の荒くなりつつあるリビングの雰囲気をいち早く察して、キッチンから母が顔をのぞかせた。

「言葉が足りないのはいつものことね、お父さん。言いたいことは言えるうちに言わないと」

 父を嗜めるように、母が言った。

 一呼吸おいてから、父は姿勢を正した。口を尖らせて、じれったくも言葉が出てこないようだった。やがて観念したように真っ白な封筒を取り出した。

「じいさんの遺言……のようなものなんだが、博人、この仕事をやってみる気はないか」

 父はどこか気まずいようで、それ以上多くを語らなかった。

 博人は封筒を開け、四枚の紙を取り出す。一枚は来年の地域七夕祭りのチラシ。一枚は神輿デザイン募集の紙。三枚目に、博人へ、とだけ書かれた便箋。そして最後に、下手な落書き。落書きは祖父が書いたものなのか、子どもが力強く描いたような、滅茶苦茶な線だった。

 博人の住む地域の七夕祭は毎年、子ども神輿が一大イベントだった。近隣の幼稚園や保育所が、地域の古寺に仕舞われた神輿を順番に担ぐのだ。博人の祖父は毎年、この祭りに自主的にボランティアに行っていた。ある年は交通整理をし、ある年は焼きそばを焼いていた。

 そんな祭りの神輿が古くなっている。持ち手木材のささくれが刺さる子どもが数人いて、神輿自体を中止にしようかという話も上がっていた。けれども、子ども神輿が一大イベントであるから、中止ではなく新しい神輿で継続を、というのが地域の方針で決まったという。

「やりたいのは山々だけど、俺は平面のイラストの方が多くって。立体的なデザインができるかわかんないよ」

「……でもねぇ、おじいちゃんが言うには、募集が殆ど集まってないんですって。若い人たちはみんな外に出て行っちゃって、絵が描ける人なんてこの辺にはいないからさ」

 母が続けた。どうやら反対していた経緯がある手前、父はいまだに渋っているらしい。祖父の遺言ともあって、反対しきれてはいないようだが。博人自身、この手紙と募集が祖父の願いであるなら、かなえてやりたいと思った。なによりここで上手く力を出せれば、父を納得させられるかもしれないと皮算用もしていた。

「……やれるだけ、やってみるよ」

 その言葉に、母がまたにっこりと笑った。

(サンプル文掲載)

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