読書ノート15冊目「人間失格」太宰治

日々雑記

「恥の多い生涯を送って来ました」
そんな一文を、私はもう三度は読んでいます。
ただ、一度目・二度目ともに中学時代であったこともあり、その当時どんなことを思っていたのかもうすっかり忘れていました。
なんだか文字の表層だけを攫って、こんなふうにブログを書くほどには深く考えていなかったと思います。

最近、近代文学を嗜むようになって、太宰治の名を何度も目にします。
芥川賞に固執した、現代まで色褪せない才能の大作家。わたしのあこがれの作家。
高校、大学を経て、出会った多くの人が太宰治の作品を嫌いだと仰ったけれど、私は好きです。
周囲の流れに身を任せて、私も嫌いだと言った時期がありましたが、やっぱり好きでした。

今回は、読書ノートの15冊目。誰もが一度は耳にする「人間失格」の感想です。


太宰治

自殺未遂や薬物中毒を繰り返しながらも、戦後を生き「走れメロス」「津軽」「人間失格」などの作品を次々に発表した無頼派作家。
没落した華族の生涯を描いた「斜陽」はベストセラーになった。

恋や人生に悩みながら生きた作家ですが、彼を知る坂口安吾、檀一雄の言葉を見ると、不器用な人間であったのだと思わされます。
個人的には檀一雄の「小説太宰治」や坂口安吾の「不良少年とキリスト」は読んでほしいなぁと思います。
社会が、歴史が動き、多くの人が文字を読める時代になりました。彼の作品を読めることを、私は幸せだと思っています。

感想

先述の通り、私の周囲には太宰治が嫌いな人間がたくさんいました。
なかでも印象的なのが、一人は私の母で、一人は高校の時の先生でした。

母曰く「暗い話でこっちまで暗くなってくる。気分が悪い」
先生曰く「金持ちだったくせに、自身の辛苦ばかり嘆く自己中心的文章が気に食わない」

太宰治の文章を、どう理由をつけて嫌っているかで人間性が見えてくるような気がして面白いです。

反論をつけるとするならば、母には「純文学とは話の展開だけではなく、展開を広げる文章の巧拙や一つの描写の適度な掘り下げ方の追求をした文章であって、ただ暗い文章、というだけでは太宰治の文学を読めていない」と言うでしょう。
もっとも、母は文学に興味がないので、そんなことを言うだけ暖簾に腕押しですが。
先生には「金持ちと言えども、自身より優れていると言えども、人間がどのような段階にいても不安というものはあるだろうし、それは文章を書けること、金持ちであることへの嫉妬でしょう。その不安を昇華したのが太宰の文学なのでは」と議論を吹っ掛けると思います。
(先生がおっしゃっていたのが高校の講義中で、そのことについて議論する時間がないまま卒業してしまったので、ここで書くだけにとどまってしまいますが)

わかったような気持ちになっているだけで、わたしだってまだまだ解釈できていない。
ただの一ファンにすぎないのですから。

さて、人間失格の感想にうつりましょう。
人間失格、何とも簡素な題で、この作品の本質であるとも言えます。
一度聞けば忘れられないタイトルですし、オマージュ作品なども数多くありますね。

話の展開は言い訳のような独白。
一人の男の不器用に生き、無残に散りかけている命灯を手記に預けて、それが作家の手元に渡る構成で描かれています。

作品のあとがきで描かれた他者から見た葉ちゃんの姿。
「神様みたいないい子」という言葉にいつもギョッとしてしまう自分がいます。
凡そ葉蔵の道化はよく見られることに成功していました。
しかしながらそれが、何時も誰もに本性だと思われてしまっていることがよくわかる一文だと思います。

きっと葉蔵に本人に言ったら、表情では下手な道化をしながら、内心ではビクビクしていたんじゃないかな。

積み上げてきた成功はいつか崩れていく不安を背負っている。
女と心中未遂をしても、酒や薬に溺れても、世間は葉蔵をまだ「いい子」だと信頼している。
彼は落ちぶれるような、狂人ではないと信頼している。

幾度と続く信頼の恐怖はどれほどだったでしょう。

私は、人間失格に救われた人間なので、いつもこの作品の言葉が胸に染みるような思いがします。
母や先生はそうではないようですが……彼らはへこたれることはあっても前向きに生きようと努力できる人たちです。そして、そういった人間の方がまだまだマジョリティです。
だからマイノリティの人間は、彼の言葉に耳を傾け、当の昔に亡くなったというのに心を開いてしまう気がします。
私もその一人です。


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