遠くて近い”今”の話をしよう「華氏451度(新訳版)」感想

読書ノート

お久しぶりです。大分長いこと期間が開いてしまいました。ざっと空いた期間のことを少しだけ。
師匠と慕っていた人が亡くなってしまい、家庭環境もごたごたして、大学院に進むために毎日働いて……という精神的にも身体的にも辛い時期でした。
完全に文章を止めていると、急に思うんですよね。文章が書きたいなぁって。
書いていた小説の続き、ブログの記事、日記、新しい作品の構想も思いついて。

文章が無くても人間としての生活はできるけれど、文章を書いていないと私じゃない。
そんな気がして、気づけばパソコンを開いています。

そんなわけで、今日はリハビリに「華氏451度(新訳版)」の感想を。
昔はどんな風に書いてたっけな、と思い出しながら書いているのでお見苦しい点あるかもしれません。

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あらすじ

華氏451度――この温度で書物の紙は引火し、そして燃える。451と刻印されたヘルメットをかぶり。昇火器の炎で隠匿されていた書物を焼き尽くす男たち。モンターグも自らの仕事に誇りを持つ、そうした昇火士のひとりだった。だがある晩、風変わりな少女をであってから、彼の人生は劇的に変わっていく……

レイ・ブラッドベリ作 伊藤典夫訳「華氏451度 新訳版」早川書房 裏表紙より

物語の世界は「本が禁止された世界」。なぜ本が読んではいけないのか、本を読むとどうなるのか……本が「読める」世界にいる私達でさえ、本を読むという禁忌にドキドキしてしまう一冊です。

「本が読めない」となると登場人物の知能が下がりそうなものですが、その点は心配ありません。この世界には「本」の代わりがあるのです。新しい知識を得、友人や家族と会話をし、毎日のニュースを流してくれる「本」の代わりです。さて、それは一体どんなものでしょうか……?

本書が書かれたのは1953年。作品ジャンルはSFです。
しかしながら、現在と比較しながら読むのがこの本の魅力を最大限引き出せる方法だと思います。
SFとはファンタジーでありながら、「こうなったらいいな」「こんな未来かもしれないな」という予想を描き込んだ現実の延長線上の空想です。
そして、これだけは伝えておきましょう。人間が想像しうることは起こり得るのです。

感想(ネタバレ有)

あらすじで提起した問題の答えを先に伝えておきましょう。
本書の世界で、新しい知識を得、友人や家族と会話をし、毎日のニュースを流してくれる「本」の代わり、それは「テレビ」です。
家の壁に大きなテレビが点いており、モンターグの妻は毎日モニターと向かい合いながら、ある時は地域の友人知人たちと、ある時は親族と、またある時はニュースを見て新しい知識を学びます。

モンターグはそんな世界で「昇火士」、つまり本を燃やす仕事をしています。
ふりがなで読むならばファイアマンなのでしょうか。この本を読みながら、確かにFireman、Firefighterという呼び方は火を消すというよりも火を使う人というイメージの方が付きやすいなと感心してしまいました。

なぜ、本が禁止されてしまったのでしょう? 読み進めていくうちにどんどんと世界観がわかってきます。
この世界は多種多様に情報が多くなりすぎて整理しきれない状態なのです。
そして本を燃やすことで「誰か」にとって都合の悪い情報を発信することを禁止しようとしている。この場合の「誰か」は大衆でも政府でも少数派でも構いません。

InstagramやTwitter(現X)などSNSを考えてみるとわかりやすいと思います。
現在SNSではどんな人でも情報を発信することができます。それは正しいにしろ、間違っているにしろ、です。毎日のように情報が更新され、指を上から下に、下から上に、画面をなぞるだけで新しい情報が出てきます。チャット機能で顔も知らない友人たちと繋がり、家族を作ることもできる。近隣のニュースから海を越えた戦争の話だって見つけられます。さらにはSNSのアルゴリズムが優秀で、使用者の見たいもの、心揺さぶられるものが上位表示されますね。

華氏451度世界の「本を禁止する」というのは、現代でいう「SNSを禁止する」と同じ意味合いで考えるとより分かりやすくなるでしょう。沢山の情報があり過ぎるから、真実の情報以外、必要最低限の情報以外は流れないようにしよう、という取り組みなのです。陰謀論や非科学的な情報が排除されていると考えるのが良いでしょう。一見素晴らしく合理的な世界のように思えてしまいます。

政府が見せたい情報だけを見て親しい友人とだけつながる生活は、視野狭窄に陥り、政府の思うままに洗脳される人間を生み出します。旧日本の報道体制やナチスドイツが国民に信じ込ませた手法と同じ方法が用いられているのです。
実際にモンターグの妻や上司は、絶対的に本が良くないものだと信じ込み、モンターグの気が狂ったと、元に戻ってほしいと諭す場面さえありました。

モンターグは今までの価値観に抗うように本を読み、先人に教えを乞い、そして自らもまた本を守る人間として立ち上がっていきます。

いずれ、一カ月先か半年先か、少なくとも一年とはたたないうちに、またここをひとりで歩くことになるだろう。

レイ・ブラッドベリ作 伊藤典夫訳「華氏451度 新訳版」早川書房 p273より

この言葉がストンと胸の中に落ちてきました。
私もモンターグがしていたように、最初の頃は忘れたくない言葉や覚えておきたいページを何度も口ずさんだり、メモを取ったりして(モンターグは追われていたためメモにはしていませんが)何とか残そうとしていました。
特に私の場合は、本を読んだ時よりも、師匠が亡くなった時の方が似たような行動をしていました。
師匠の言葉や日々の思い出をなんとか文章にしようとして、四苦八苦して、文章が書けなくなっていきました。

経験や思い出は覚えていようとして覚えていられるものではないんですね。

「またここをひとりで歩くことになるだろう」とは物理的な意味でも、精神的な意味でも描かれている言葉です。
まず物理的な意味では、本を守る人々はモンターグのように本に触れ、孤独になった人々を拾い、広く世界を旅しています。モンターグが出会った先人たちは、年齢は分りかねますが、それでもモンターグよりも年上でしょう。先人たちが亡くなっても、自分一人になってしまっても、モンターグはこの旅を辞めない、という意思表示のようにも感じられます。

またモンターグは経験した感情や目にした光景に合う言葉を、本の一文から探そうとしています。本の一文や心に残る言葉は、それと合致する出来事に出会った時にふっと降りてきます。まるで過去の記憶を思い出すように、突然啓示を受け取るように。
精神的な意味での「またここをひとりで歩くことになるだろう」とは、この経験で思い出した本の内容をきっと別の場面でも思い出すだろう、というはっきりとした予感なのです。
そしてそれは必死で本の内容を忘れまいと、一言一句口ずさんでいたモンターグの人間的な成長でもあります。必死で覚えなくても、本当に必要なことは覚えているのです。

これはこの本における最もな問題提起であるように思えます。必要なこと、残しておきたいものは、何度も繰り返さずとも覚えている。
一方で本書の政府が覚えて欲しい知識やニュースは何度も放送され、無理矢理に住民たちの頭に叩き込むようでした。
その人にとって本当に必要な事であれば、脳は勝手に記憶を呼び覚まし、感情を風化させないようにふとした瞬間に思考の中に流してくれる。

現代でも同じことが言えるのではないでしょうか。
我々はテレビの代わりにスマホを持っています。家の中に大きな画面はないですが、何処にでも持ち歩ける画面は持っています。そしてスマホは、何度も流さなくてもいい情報を、私達が興味のある情報だと思い込ませるように、繰り返し繰り返し流してきます。

最初の話に戻りますが、文章を長い間書いていなかったのに、急に書きたくなるのも同じことだと思っています。
私の中で「文章を書く」ことが必要なことになっているんです。だから書き方を思い出せなくっても、欲しい言葉が見つからなくっても、脳が勝手に思い出させてくる。

私自身もスマホは大好きですから、スマホを辞めろとは思いませんが……情報の取捨選択が問われる未来、それを予感した70年前の書籍。素晴らしい一冊でした。

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