ホラー映画は苦手だ。
怖いものをわざわざ見に行く私の友人たちの気持ちは、正直なところ、あまり分からない。
それなのに『羊たちの沈黙』からは、目を離すことができなかった。
私が苦手なのは、血や暴力そのものよりも、何が起こるか分からない時間なのだと思う。
静まり返った廊下。
何かが来ると分かっているのに、まだ何も起きない間。
その不気味な沈黙が、一番怖い。
『羊たちの沈黙』には、そんな恐怖がずっと流れていた。
けれど私が本当に怖いと感じたのは、静かなものだった。
自分の意思に反して目を奪われること。
相手の言葉を聞きながら、少しずつこちらの内側まで侵食されていくこと。
そして何より、理解したくないものを、理解できてしまいそうになること。
見てはいけないものを見てしまったような、理解したくないものを少し理解してしまったような感覚がゆっくりと体の中に入り込んでくる。
『羊たちの沈黙』の恐ろしさは、怪物がいることではなく、怪物の言葉に耳を傾けてしまうことにあるのかもしれない。
「羊たちの沈黙」の魅力
印象的だったのは、登場人物たちがクラリスを見る「目」だった。
冒頭から、クラリスは見られる存在として描かれている。
まっすぐにクラリスを見つめる瞳。
それは、たとえば『ショーシャンクの空に』で描かれたような、信頼や友情をたたえた温かい瞳ではない。
品定めをするような目。
場違いなものを見るような目。
あるいは、相手の弱さや傷を探り当てようとするような目。
クラリスは捜査官である前に、若い女性として見られる。
能力を持った一人の人間としてではなく、まず「女」として、観察される。
その視線の重さが、この映画全体に不穏な空気を与えているように感じた。
レクター博士は怪物か、それとも人間か
クラリスは、物語の最初から最後まで、誰かの視線にさらされている。
それは単なる注目ではない。
執拗なまでに画面に配置される男性。
男性社会の中で懸命に生きる女性という役割がクラリスである。
そしてクラリスを見る視線は
品定めされ、試され、時には色欲さえ感じるような視線だった。
レクター博士の視線は、他の人物たちの視線とは少し違って見えた。
クラリスを値踏みするような目ではある。
けれど、それだけではない。
彼の目には、どこか父親のようなものがあった。
幼い子どもを見下ろすような、未熟な者をどこかへ導こうとするような視線。
ただし、それは決して温かい父性ではない。
レクター博士はクラリスを守ろうとしているようでいて、同時に彼女の内側を容赦なく覗き込む。
傷を見抜き、過去を語らせ、彼女が目を背けていたものを差し出してくる。
彼はクラリスを導く。危険な導き手である。
けれどその導きは、手を引くというより、心の奥を切り開いて進ませるようなものだった。
レクター博士は善悪の外側で動いている
レクター博士がクラリスに向ける視線には、いくつもの感情が混ざっているように見えた。
未熟なFBI研修生でありながら、彼女の中にある資質を見抜き、敬意を払っていること。
精神科医として、彼女の抱える問題を見抜き、それを解きほぐそうとしていること。
そして同時に、彼女を試し、翻弄し、退屈を紛らわせる遊び相手として見ていること。
そのすべてが、彼の視線の中で渦巻いているように感じた。
人を食べる医師。
その時点で、彼はすでに人間社会の倫理から大きく外れている。
けれど、レクター博士の恐ろしさは、ただ異常な犯罪者であることだけではない。
彼はクラリスを、単なる獲物として見ていない。
むしろ、知性を持つ相手として認め、その内側に入り込み、彼女自身も気づいていない傷や欲望を引き出していく。
それが、とても恐ろしい。
人間は、理解できないものに出会った時、それを何とか理解できる形に収めようとする。
悪人なのか。
怪物なのか。
それとも、どこかに善性を残した人間なのか。
けれどレクター博士は、そのどれにも簡単には収まらない。
私は彼を理解するために、「善悪の外側にいる存在」と考えようとした。
彼は人間社会の価値観を知らないわけではない。
むしろ、よく理解している。
精神科医として人の心を読み、知性を持ち、社会の中で信頼を得る方法も知っている。
一般的な倫理観が何であるかも、おそらく理解している。
それでも彼は、その倫理に従わない。
私の中でレクター博士は、人間の中に生まれながら、人間の価値観に迎合しなかった存在だった。
そして、人間社会で生きるために、自分なりの形で適合してしまった存在だった。
たとえば、クマが人を襲うのは恐ろしいことだ。
被害は大きい。
もし自分の大切な人が襲われたのなら、その悲しみや怒りは計り知れない。
けれど、クマを人間と同じ倫理で裁くことはできない。
そこにあるのは善悪というより、人間とは違う生き物の理屈である。
私はレクター博士を、まるで人間社会の中に紛れ込んだ猛獣のように考えようとした。
人間の姿をして、人間の言葉を話し、人間の知性を持っている。
それなのに、根本のところで人間社会の価値観とは別の理屈で動いている。
だからこそ、彼は人を選ぶ。
無差別に襲うのではなく、自分なりの基準で相手を見定める。
その基準がどれほど歪んでいたとしても、彼の中では一つの秩序として働いているように見える。
しかし、ここまで考えて、私は少し怖くなった。
これは、私がレクター博士を怖がらないために作った理屈なのではないか。
善悪では理解できないものを、「人間とは違う価値観を持つ存在」として整理する。
そうすることで、彼の恐ろしさを少し遠ざけようとしている。
いつの間にか、私の心の中には、レクター博士を理解したいという欲望が生まれていた。
それは、クラリスが彼に近づいていく感覚とどこか似ているのかもしれない。
理解したい。
理解できれば、怖くなくなるかもしれない。
名前をつけられれば、距離を取れるかもしれない。
けれど『羊たちの沈黙』の恐ろしさは、まさにそこにあるのだと思う。
レクター博士を理解しようとした瞬間、こちらはすでに彼の方へ一歩近づいている。
なぜ「羊たち」は沈黙するのか
では、なぜ羊たちは沈黙するのだろう。
私には、このタイトルには二つの意味があるように思えた。
一つ目は、弱いものが声を上げられなくなる沈黙である。
羊は、救われるべき弱い存在として描かれる。
クラリスの記憶の中で、羊たちは屠殺される存在だった。
逃げることも、抗議することもできず、ただ悲鳴を上げることしかできない。
クラリス自身もまた、男性社会の中で見定められる存在だった。
FBI研修生として能力を持っていても、彼女はまず若い女性として見られる。
その視線の中で、彼女は何度も試され、値踏みされる。
その意味で、羊とは声を奪われる弱者の象徴なのだと思う。
けれど、私にはもう一つの意味もあるように感じた。
羊は、群れとして導かれる存在でもある。
巨大な存在、権威的な存在、あるいは心を許してしまった先導者に従ううちに、自分で考えることを手放してしまう存在。
クラリスは、レクター博士の真意を知りたいと願う。
彼を警戒しながらも、その知性に惹きつけられていく。
そして終盤になるにつれ、彼に対して抗議する言葉は少なくなっていく。
それは、彼女が完全に支配されたということではない。
けれど、レクター博士の言葉が、いつの間にか彼女の思考の中に入り込んでいるように見える。
羊たちの沈黙とは、弱いものが声を奪われる沈黙であり、同時に、導かれるうちに自分の声を失っていく沈黙でもあるのかもしれない。
恐ろしいのは怪物か、人間か
この映画を見ていると、恐怖とは、言葉にできないものに出会うことだけではないのだと思った。
むしろ、言葉にしようとすることで、いつの間にか自分と他者の境界を踏み越えられていること。
理解しようとしたはずなのに、気づけば相手の理屈の中に入り込んでいること。
その方が、ずっと静かで、ずっと恐ろしい。
レクター博士は、たしかに怪物である。
人を食べ、人の心を読み、相手の弱さにためらいなく触れる。
けれど、彼を見ていて本当に恐ろしかったのは、彼の異常さそのものだけではなかった。
彼を理解したいと思ってしまうこと。
彼の言葉の意味を考え、彼の行動に理由を探し、彼をただの怪物として片づけられなくなっていくこと。
レクター博士を見ていたのは、クラリスだけではない。
映画を見ている私もまた、彼を理解しようとしていた。
恐怖を遠ざけるために、彼に名前をつけようとしていた。
善悪の外側にいる存在だとか、人間とは違う価値観を持つ者だとか、そうやって言葉に収めようとしていた。
けれど、その時点で、私はすでに彼の方へ一歩近づいていたのかもしれない。
クラリスがレクター博士の言葉に耳を傾けたように。
彼の真意を知りたいと願ったように。
私もまた、理解できれば怖くなくなると信じて、彼の内側を覗こうとしていた。
その時、私の中の羊も、少し沈黙していたのだと思う。
声を上げるべきだったのかもしれない。
これは危険なものだと、これは踏み越えてはいけないものだと、どこかで立ち止まるべきだったのかもしれない。
けれど私は、考え続けてしまった。
恐ろしいのは、怪物そのものなのか。
それとも、怪物を理解したいと思ってしまう人間の心なのか。
『羊たちの沈黙』の怖さは、たぶんその問いを、映画が終わった後もこちらに残していくところにある。


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