読書ノート21冊目「猿面冠者」太宰治

日々雑記

長らく太宰治の作品で一番好きなものは「人間失格」だったのですが。
最近、いろんなものを読み直したり、自身の心情の変化なんかもあるのかな、太宰文学で最も好きなものは「猿面冠者」だと答えるようになりました。

このブログを通じて、時々小説を載せたりもしていますが、行き詰った時は「猿面冠者」をよく読みます。
あともう少しだけ、あと一行だけ、小説を書こうかなと思えるようになります。

中学生の時は、荒唐無稽に感じた物語ですが、本を読むようになって、ちゃんと内容を読むことができるようになったのでしょうか。
そうだったらうれしいなぁ。

青空文庫で公開されてます!!!! 

太宰治 猿面冠者

太宰治

自殺未遂や薬物中毒を繰り返しながらも、戦後を生き「走れメロス」「津軽」「人間失格」などの作品を次々に発表した無頼派作家。
没落した華族の生涯を描いた「斜陽」はベストセラーになった。

恋や人生に悩みながら生きた作家ですが、彼を知る坂口安吾、檀一雄の言葉を見ると、不器用な人間であったのだと思わされます。
個人的には檀一雄の「小説太宰治」や坂口安吾の「不良少年とキリスト」は読んでほしいなぁと思います。
社会が、歴史が動き、多くの人が文字を読める時代になりました。彼の作品を読めることを、私は幸せだと思っています。

作家別作品リスト:太宰 治
太宰治 | 著者プロフィール | 新潮社
太宰治のプロフィール:(1909-1948)青森県金木村(現・五所川原市金木町)生れ。本名は津島修治。東大仏文科中退。在学中、非合法運動に関係するが、脱落。酒場の女性と鎌倉の小動崎で心中をはかり、ひとり助かる。1935(昭和10)年、「逆行...

猿面冠者

あらすじ

「猿面冠者」の主人公は小説「風の便り」を書こうとする。「風の便り」に出てくる主人公は小説家を志し、革命家を志し、そうして平凡な勤め人としての生活を送っている――その主人公の元に三通の通信が送られてくる。その通信は「猿面冠者」の主人公が自身の人生で貰いたいと思うものだった。
空想と現実は入り乱れ、「猿面冠者」の主人公は話の流れを変えてしまう。
出来上がった作品を筆者は「猿面冠者」と題した。

好きな言葉

そのような文学の糞から生れたような男が、もし小説を書いたとしたなら、いったいどんなものができるだろう。だいいちに考えられることは、その男は、きっと小説を書けないだろうと言うことである。一行書いては消し、いや、その一行も書けぬだろう。彼には、いけない癖があって、筆をとるまえに、もうその小説に謂わばおしまいの磨きまでかけてしまうらしいのである。

実業之日本社文庫出版 桜桃・雪の夜の話 無頼派作家の夜「猿面冠者」 p19 より

発見した。発見した。小説は、やはりわがままに書かねばいけないものだ。試験の答案とは違うのである。よし。この小説は唄いながら少しずつすすめてゆこう。

同書「猿面冠者」 p24 より

彼はカツレツを切りきざんでいた。平気に、平気に、と心掛ければ心掛けるほど、おのれの動作がへまになった。完璧の印象。傑作の眩惑。これが痛かった。声たてて笑おうか。ああ。顔を伏せたままの、そのときの十分間で、彼は十年も年老いた。

同書「猿面冠者」 p39 より

感想

うわーーーーーあらすじ書くの難しい……!!!!
と思いながら書きました。
なんせ、これは太宰治の小説内で小説を書こうとする主人公の小説の構想が広がっていく作品。
さらには「風の便り」の主人公も小説家を目指しており、「鶴」という作品を書きます。
「鶴」の主人公も、天才の誕生から悲劇的な末路にいたるまで、を書くので……と、どんどんと繰り返されていくのです。

なぜこの作品が好きなのか、というと、読んでいる最中に「あぁ、これ太宰先生が自分自身の事を書いてるな」と気付くからです。
それを、悲劇的もしくは喜劇的に描くのではなく、あくまでカリカチュアとして描いています。

ぼくはね、今までひとの事を書けなかったんですよ。

歓楽極まりて哀情多し:無頼派三羽烏座談会 より

私小説、日記、作文を書いたことがあればわかると思いますが、自分の事を書くときって、読者に読ませたいように自身を美化してしまうんです。
悲劇的にしたければ、一番最初に自分を欠点の無い人間にしてしまいがちですし。
喜劇的にしたければ、自己紹介に完膚なきまでの自虐を含めていく。
小学生の作文の最後が「○○について学びました。楽しかったです。次は○○したいと思います」で終わるように。今後の小説の展開を含めて、自身をより良く、より面白く、より魅力的にしようとしてしまう。
文章の中で、自身の成長を描いてしまう、これが普通なんだと思います。

でも「猿面冠者」は自分を貶めるわけでも、成長させるわけでもない。
太宰先生が小説を書く、その考え方を拓いていく。そうして完成した作品と変化のない主人公のぼんやりとした余韻で話が閉じられていく。

これだけ自分を客観視できていた人なのに、自己愛の高さと破滅的な生活が共存していた一人の人間だということが、やっぱり面白いなぁと思ってしまうのです。

太宰先生の作品は女性の独白文の巧みさが評価されています。
https://www.sankei.com/article/20220212-CQA2SJUCLJLDLFYJTM6KP5ND3U/
川端康成も評価していたようですね。

そんな技巧はこの作品でも現れていて、「風の便り」のラストは

だってあなたはわるくないし、いいえ、理屈はないんだ。ふっと好きなの。あああ。あなた、仕合せは外から? さよなら、坊ちゃん。もつと悪人におなり。

実業之日本社文庫出版 桜桃・雪の夜の話 無頼派作家の夜「猿面冠者」 p44 より

と括られていきます。いやもう、素敵すぎる。好き。つい口ずさんでしまいたくなる。
この言葉表現のセンスは、詩に似ているところがあるんじゃないかと思うのです。
私は詩を書くことは出来ないですが、こういう、歌いたくなるような表現には憧れてしまいます。

自分を作品的主人公として美化しないけれど、言葉選びの上では気障な、恰好つけたような美化をする。
はぁあああああーすき。めっちゃ好き。
上手く感想を言語化しようと思いましたが、好きとしかでてこない。自分の語彙力が憎い。
とは言いつつ、教科書的な理論的な解説感想は、この作品の価値を落としてしまう気がします。
この読み方が正しい、この解釈が正しい、というのがあまりにも勿体ない。

なのでこれは全部私の感想だということで読んでほしいのですが、太宰文学には両極端な承認欲求と自愛とがあって、それを文学という芸術にしていると思うのです。

例えばyoutube や Instagram で見るような、「丁寧な暮らし」とか「ミニマリスト」とか「フェミニズム」とかありますが、本当に満足した暮らしをしているなら、発信しないんじゃないかというのが自論です。そこにはどこか「誰かに認められたい」「賞賛してほしい」という欲求がある。
でも彼らはそういう欲求を表に出しません。表に出す人もいますが、そういう人たちは「表に出す自分」をコメディキャラとして描く。

太宰文学の中にも、そうした賞賛されたい太宰本人を模した人物が登場します。
その人物を貶す人物が登場するのも作品の特徴です。猿面冠者であれば「独裁者の洋画家」であり「夕刊の批評」です。人間失格であれば「竹一」や「堀木」でしょうか。
そして最後に、どちらの人間をも監視する「世評」が登場する……。
この三者全てが、太宰先生の視点と考えと言葉で描かれている。

「自分を認めてほしい」という承認を、自分の作品のなかで「自分を模した人物」の言葉で、貶していく。それでも生きていこうとする人間を描く。
これが、他者にとっては滑稽で、作品を自分の事のように感じる読者にとってはシンパシーを誘うのだと思います。

そして私も、そんな作風に惹かれた一人の人間であります。

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