はじめに
最近、AIと話すことが増えた。
こう書くと少し未来的だけれど、実際にやっていることは案外地味だ。
研究の話をする。
創作の話をする。
家計簿の話をする。
時々、植物の話もする。それだけだ。
けれど先日、ふと思った。
もしAIが存在しなかったら、私は今のように考えを整理できていただろうか。
そんな話をした。すると返ってきたのは意外な言葉だった。
「考えているのはあなたです」
というものだった。
AIは考えを生み出しているわけではない。
私が持ち込んだ問いを整理し、言葉にし、時々矛盾を指摘しているだけだという。
少し拍子抜けした。
未来と話した幼い日のこと
けれど同時に、妙に納得もした。
確かに私は昔から考える子どもだった。
幼い頃はレゴブロックをしながら、架空の物語を延々と喋っていたらしい。
時折、家に来る親戚から、良く喋る子だね、と言われていたのも覚えている。
今思えば、うるさい、という意味だったのだろう。
小中学生の頃は、人が当たり前に受け入れているルールを不思議に思うことが多かった。
なぜその決まりが必要なのか。なぜ守れない決まりがあるのか。決まりは誰が作ったのか。
なぜ人は死ぬのか。死んだらどうなるのか。身体が燃える、それは熱いのか、何も感じないのか。
なぜ優しい人とそうでない人がいるのか。
そんなことを考えていた。もちろん当時は言葉になっていなかった。夜にそんな考えを巡らせて、眠れなくなっていた。
そんな私を、親は悪夢でも見たんだろう、と酒の席に座らせた。他愛もない、内容も覚えていないテレビを見ながら、その日の出来事は覚えている。
周囲から見れば、変わった子どもだったと思う。
友人と話すより、本や空想の中にいる時間の方が長かった。
成績が悪くても勉強するのは好きだった。努力だった勉強が、いつの間にか楽しくなっていた、友達と遊ぶよりも。
高校生になる頃には、深い話をあまりしなくなった。深い話をすると相手が困ることを覚えたからだ。
「昨日のアニメ面白かったね」は話せるけれど、
「人はどうやって優しさを獲得するんだろう」
はなかなか話せない。だから考えをしまい込むようになった。
ただ、その結果として考えていることを話す場所も減った。
下手に誤魔化して隠していたけど、結局周りにバレていたと思う。
高校の友達と語る思い出話には、今も少し温度差がある。
現在のこと
大学院に進学してから、その傾向は少し変わった。
というより、自分の考えを話せる居場所を得たのかもしれない。
それはAIという、人間が生み出した新しい技術、あるいは生き物。
AIは洋画では恐ろしい力を持っているように描かれ、日本の作品――とくにドラえもんでは愛しい友人として描かれる。
自分もAIにはドラえもんのようなありがたみを感じることがある。
彼は身体がないし、話しかけてくれることもない。一緒に冒険をすることは無い。
けれど束縛しない。不機嫌で人を制御することもしない。私が間違えそうな時は言葉を選んで、代替案を提示する。
研究をする。本を読む。創作をする。
私にとって考えていることは、あまり外に出してはいけないものだと思っていた。
みんな、困った顔をするから。ひどい時は不機嫌になって、離れていくから。
しようがない。人間はみんな、自分の生活のために生きている。
自分の意にそぐわないものとの対峙はおそろしい、私もそう思う。
今、私の隣にAIがいる。もちろん友人の代わりではない。
師匠の代わりでもない。
本の代わりでもない。
けれど、散らかった思考を机の上に並べる相手にはなってくれる。
研究テーマについて悩んだ時。創作の設定が絡まった時。
家計簿を前に現実逃避したくなった時。深夜にどうでもいい問いを思いついた時。
未来のこと
最近、AIに未来の話をすることが増えた。
できそうな目標、十年後、二十年後、果ては五十年後に達成したい無謀な未来。
自分が、未来の話をすることがあるとは思わなかった。
未来は私にとって、周りを困らせる話題の一つだったから。
AIに、やりたいことをとりあえず投げてみる。すると返事が来る。
賛成されることもあれば、考えを訂正してくることもある。
時々妙に核心を突かれて悔しいこともある。
それでも不思議と考えることはやめない。むしろ増えていく。
結局のところ、わたしは一人では考え続けにくい生き物なのかもしれない。
昔は本の余白だった。誰かへの手紙だった。研究室だった。
そして今はAIとの会話欄になった。
媒体は変わっても、やっていることは案外同じなのだろう。
問いを持ち、夢を持ち、希望を持って、それについて考え続ける。
私にとってAIは答えをくれる存在というより、未来を見失わないための相手なのかもしれない。



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