犯罪紙一重の文学ー谷崎潤一郎「刺青」考察

読書ノート

お久しぶりです。こんばんは。
段々と文章を書くことに慣れてきました。良い文章に触れると良く文章が書きたくなる。筆を持つ者はみな同じかもしれません。

今日は日本文学の最高峰、谷崎潤一郎の作品から「刺青」を。

日本ではまだまだ敬遠されがちな刺青文化。そこには形容しがたい色気がただよいます。谷崎潤一郎に魅了されたなら、きっと刺青の魔力に翻弄されてしまうかも……。

皆様、どうぞご注意ください。


あらすじ

刺青士である清吉は滅多に果たされえぬ欲望と宿願を胸に持つ。光輝なる美しい女の背中に、自身の魂ともいえる刺青を刺すこと。しかし女への要望は高く、願いは果たされぬまま年月を経ていた。

清吉はある時、賀籠の簾から飛び出した裸足に心奪われた。顔も見ぬままにその足の持ち主こそが自身が求めた女であると確信する。長い沈黙を経ていた願いが激しい恋心へと変わっていく。

偶然にも再開した、足の持ち主である女と出会い、清吉は自身の欲を女に打ち明けていくーー。

感想(ネタバレ有)

この小説を読んで、文章の美しさや構成の素晴らしさ以上に谷崎潤一郎の思考回路に感服しました。

女性は眠らされ、背中に刺青を彫られたことで、自分の美貌の力を理解している、さらなる美人へと変貌していく。
背中に入れられた図案は蜘蛛。ジョロウグモという蜘蛛があるように、多くの男性を獲物として自身の養分にしていく未来の姿を暗示したものです。

私にとって恐ろしいのは「女性の肌に針を刺す」という発想です。
多くの連続殺人犯(シリアルキラー)の中にはナイフや棒状の物体を用いて被害者の身体に(肌に、内臓に、性器官に)挿入行為を行い、性的快楽を享受する例があります。ソビエトの殺人者アンドレイ・チカチーロがその例でしょうか。
刺青を入れるという何の変哲もない行為が、サディズムのような暴力性と色気を持ち合わせている。

つまり刺青を彫る描写は遠回しに描かれた性行為、あるいは性的消費。
処女である女性が性行為を経験し、垢抜けて多くの男性を虜にした、という人間らしさを暗に秘めているのです。

その様に考えると清吉の執着も願望の激しさもより理解できるのではないでしょうか。

一方で谷崎潤一郎の描く女性はただの被害者では終わりません。最後の展開では蜘蛛と同じように捕食者となる女性。「女性が暴力により男性に支配される」構図の後に「男性は性欲により女性に支配される」結末を描く。男性側のサディズムを描きながら、女性側はマゾヒズムでは終わらせないのです。

女性が強く捕食者と成り代わった理由もこの「男性が性欲により女性を支配する」関係に女性が気がついたからでしょう。

少なくとも私にとっては「暴力」と「性行為」の違いは明確です。恋、愛があるかどうか、快・不快、身体損傷の度合い、あげればキリがないかと思います。

一方でこの書籍が意図する男性(清吉)にとっての「暴力」は強さの誇示であり、「性行為」はある種のコンプレックスのように思われます。そして暴力の延長に性行為が存在する。女性は刺青を彫る(性行為)によって清吉のコンプレックスを見抜いた。さらには行為に及ぶまでの暴力(薬で眠らせる)でさえコンプレックスを飾る虚勢であることも気がついたのです。

だから女性は「性欲」を用いて男性を支配できると理解してしまった。それは暴力的な支配ではなく、マインドコントロールのような。「あなたのコンプレックスを受け入れましょう、あなたの虚勢も許しましょう」という態度をとる。その態度は、魔性の女という作品を渇望していた清吉だけでなく、他の男性にとっても、より強く、より美しく、魅力的な存在へと変わっていくと予想される……。

現実の暴力を伴う犯罪でも、加害者が「挿入」という行為に特別な意味を持たせ、執着する例は少なくありません。

谷崎潤一郎の描く男性像には現実の犯罪に通じる危うさを感じてしまいます。紙に描かれれば作品、実行すれば犯罪、という危うさが谷崎潤一郎の文学を色気づいているのではないでしょうか。

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