読書ノート19冊目「桜の森の満開の下」坂口安吾

日々雑記

読書の感想を書く、というのは、読んだ人の人間性を曝け出す行為だと思っています。
別の人が同じ本を読んでも、同じ感想は出ません。
読んだときに強く印象に残る感情や思い起こした記憶によって、読んだ本の感想は変わります。

このように考えると、読書を通して自分の考えを残していると思うと少し気恥ずかしいですね。
作品を通して、作品の名前と内容を借りて、自分語りをしているわけですから。

今回読んだ「桜の森の満開の下」は幻想小説。
多くの作品のなかでも、とりわけ読後感が変わる気がします。

坂口安吾作品はかなりエッセイばかりを読んできました。
「不良少年とキリスト」「堕落論」「恋愛論」「青春論」……そうそう「戯作者文学論」も読みました。
不思議な言い回しや独自の理論展開が多く、これが小説になると幻想的な世界観を生み出すのだと納得しました。

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桜の森の満開の下
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坂口安吾

坂口安吾について普段通りまとめようと思ったんですが、彼については私の記事を見るよりも↓のリンク先に飛んでいただいた方が面白いです。

坂口安吾デジタルミュージアム
坂口安吾デジタルミュージアムは、新潟で生まれた坂口安吾を広く知ってもらうためのサイトです。 坂口家の歴史から、安吾の作品紹介まで、様々な情報を公開しています。

代表作は「風博士」「日本文化私観」「堕落論」
小説家であり、随筆家であり、そして評論家でもありました。

経歴を見ると若い頃からかなり破天荒な人といった印象。
代用教師を一年やったり、映画の嘱託をやったり、かと思えば作家になったり……。
カレーを百人前頼んだり、鉄板に手を押し付けたり……。

普通に作品を読むより、この人の人生を追った方が面白い話が出てきそうです。

無頼派

戦後の近代既成文学全般への批判に基づき、同傾向の作風を示した一群の日本の作家たちを総称する呼び方です。
象徴的な同人誌はなく、範囲が明確かつ具体的な集団ではありません。
呼び名は坂口安吾の「戯作者文学論」からきています。
同書にて坂口安吾は漢文学や和歌などの正統とされる文学に反し、俗世間に存在する、洒落や滑稽と趣向を基調とした江戸期の戯作の精神を復活させようという論旨を展開しました。

「桜の森の満開の下」 あらすじ

鈴鹿峠の山賊と、美しく残酷な女の幻想物語。
桜の森の満開の下は怖ろしいと物語られ、本能から避けていた山賊の男。
盗んだ女と都へ行き、殺人を重ね、空虚な日々を過ごす中で桜の森の満開の下にふと心惹かれていく。
花びらとなって掻き消えた女と、冷たい虚空がはりつめている花吹雪の中の男の孤独が描かれている。

好きだった言葉

「なんでも物事の始めのうちはそういうものさ。今に勢いのはずみがつけば、お前が背中で目を廻すぐらい速く走るよ」

岩波文庫出版「桜の森の満開の下・白痴」坂口安吾作  p216

桜の森の満開の下です。あの下を通る時に似ていました。どこが、何が、どんな風に似ているのだか分りません。けれども、何か、似ていることは、たしかでした。彼にはいつもそれぐらいのことしか分らず、それから先は分らなくても気にならぬたちの男でした。

同書 p219

そして歓声をもたらしました。彼は納得させられたのです。かくして一つの美が成り立ち、その美に彼が満たされている、それは疑る余地がない。個としては意味をもたない不完全かつ不可解な断片が集まることによって一つの物を完成する、その物を分解すれば無意味なる断片に帰する、それを彼は彼らしく一つの妙なる魔術として納得させられたのでした。

同書 p222

感想

桜を恐れていた男が、桜に思いを寄せるようになっていく。
環境の変化と男の心情の変化の対比が美しいと感じました。

この作品における「桜」とは何の象徴でしょうか。
安易に取れば「美」の象徴であるのですが、それだけではない深みを作品から感じました。
男が恐れているのは「終わり」なのではないかと思いました。

自分の姿と跫音ばかりで、それがひっそり冷たいそして動かない風の中に包まれていました。花びらがぽそぽそ散るように魂が散っていのちがだんだん衰えて行くように思われます。それで目をつぶって何か叫んで逃げたくなりますが、目をつぶると桜の木にぶつかるので目をつぶるわけにも行きませんから、一そう気違いになるのでした。

同書 p212より

極端に美しいものを見ると、その変化が惜しまれます。
小野小町が「花の色は うつりにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせしまに」と歌ったように、どんな美しい人、美しい物にも終わりがあります。
とりわけ美しいものには、そのもの自体の寿命の他に、美しさの寿命というものがある。
桜の木であれば、枯れることが寿命の終わり、花の散り際が美しさの寿命、といった感じでしょうか。

山賊は学のない人間として描かれ、言語化に詰まる描写が度々あります。
そんな男の恐怖は桜自体ではなく、美しい女の「変化」であり美しい桜の「散り際」だったのではないかと思うのです。

都に行って男が感じた退屈、飽きは女の願望の際限の無さからきていました。
都の生活がどのようなものか、私には特に知識がないのですが、作品中の描写から感じるのは変わらぬ日常が続いていくこと。
山での生活の様に、季節の変化や終わりが感じられず、命の平穏が確立された場所。

男は命の変化に畏れながら、一方で心惹かれてもいたのだと思います。
だからこそ都で退屈しきった男はいつしか桜の森の満開の下に行こうと思いいたるようになる。
山に住んでいた時には、恐れていたにもかかわらず……。

今年の春ごろに桜を見に行った時に、どうして桜を見ると恐ろしく感じるんだろうかと考えながら歩いていました。
梶井基次郎は「桜の樹の下には屍体が埋まつてゐる!」という冒頭を掲げていますね。
満開の桜を見ると上手く考えがまとまらず、言葉を紡ぐのが難しいと思われます。

自分の中に桜の「美」を表現する言葉が無い。
心の空間を見つめているようで、自分の中の空虚を見つめるようで、怖くなるんです。
ぽっかり空いた胸の穴に花びらが落ちてくるような心地がする。
坂口安吾は「桜の森の満開の下」で、その空虚を「孤独」と表現したのだと思います。

昔、鈴虫寺で説法を聞いた時、感動したことがあります。
説法の最中、とんでもない量の鈴虫が鳴いているのですが、うるさい、説法の邪魔だとは思わないんです。
「本当に美しいものは邪魔をしない」
こう教えていただき、感動しました。

でも、邪魔をしない、ということは存在の実態がつかめないということでもある気がしています。
心にしっとりと浸み込んでくるのに、その実態がつかめない。
見つめようとすれば、ますます「わからなくなる」
この「わからない」というのは恐怖です。

小説の感想に戻りますが、桜の美の恐ろしさは女の奇行よりも恐ろしく描かれています。
死人の首で遊んでいる女の奇行が純粋に見える。
どちらも恐ろしいことには変わりないのに、桜の方が恐ろしい。
その様に感じるのは坂口安吾の幻想作家としての力なのだと思います。

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