はじめに(出来事)
*今回記事は特定の誰かを貶める意図はありません。私自身の経験から「演劇」というものの本質と面白さについて考察する記事です。
先日放送されたドラマ『夫婦別姓刑事』をきっかけに、出演者をめぐる報道があった。
それを受けて、SNSでは作品そのものではなく、出演者個人について多くの議論が交わされていた。
とくに出演者それぞれの責任をめぐる議論が数多く見られた。
誰がどこまで責任を負うべきなのかを、多くの人が自身の意見として綴る。
私は違和感を覚え、その感覚に当てはまる言葉を探していた。
AIとの雑談の中で、自分でも忘れていた演劇の記憶が少しずつ言葉になっていった。
その経験が、今回の事件でもう一度「演劇とは何か」を私に考えさせるきっかけになった。
今回は、演劇がなぜ最後まで予測できず、人の心を動かすのか。
その理由を「不確実性」という視点から考えてみたいと思う。
個々の誰かを肯定・批判する意図はなく、一般的な演劇への考察だとご了承ください。
この記事は、AIとの対話の中で、自分でも忘れかけていた演劇の記憶を掘り起こしながら書いています。
台本通りにはならない
実際の台本は、そこまで細かく書かれているものではない。
例えば台本に
「殴る」
とだけ書かれていたとする。
それだけでは、
- 平手なのか拳なのか
- どれくらいの強さなのか
- 右手か左手か
- 一歩踏み込むのか、その場で振りかぶるのか
- カメラはどこから撮るのか
までは決まっていない。
こうした細かな表現は、役者、監督、カメラマン、スタッフがリハーサルやテイクを重ねながら、
「この方が、この人物らしい。」
「この方が、この場面に合う。」
と少しずつ積み上げていく。
つまり、もしアドリブを「その場で生まれる予定外の表現」と定義するなら、演劇には大小さまざまなアドリブが常に存在していることになるだろう。
もちろん、それは好き勝手に演じるという意味ではなく。
役者は常に「役の人格を壊さないこと」を考えながら修正を繰り返している。
私自身も高校・大学で演劇をしていたが、
セリフを噛む。
小道具が落ちる。
照明が少し遅れる。
相手役が予定と違う位置に立つ。
そんなことは決して珍しくなかった。
だからこそ役者は、その瞬間に最善と思う動きを選びながら、作品そのものは崩さないように演じ続けている。
ここで一つ思う。
もし「台本通り」が唯一の正解なら、人間が演じる必要があるのか。
機械が寸分違わず再現すれば、それで完成してしまう。
それでも私たちが人間に演じてもらうのは、人間だからこそ生まれる”想定外”があるから、ではないだろうか。
そして、その「想定外」は一人だけでは成立しない。
役者だけではなく、監督、照明、音響、美術、衣装、メイク、撮影……
それぞれが少しずつ予定外を生み出しながら、最終的には一つの作品としてまとまっていく。
私はそこに、演劇という芸術の面白さがあると思っている。
不確実性が魅力を生む
演劇は、失敗さえ作品の一部になる。
セリフを言い直したことが、その役らしさを生んでしまうこともある。
予定より少し長く沈黙したことで、観客の息を呑む時間が生まれることもある。
その一つひとつは、本来「想定外」だったはずの出来事。
だから演劇は、毎回少しずつ違う。
同じ脚本、同じ役者、同じ劇場であっても、昨日と今日がまったく同じ舞台になることはない。
実際、同じ舞台公演を全国追いかけるファンの話を聞いたことがある。
彼らが楽しみにしているのは、物語の結末ではないという。
昨日とは違う表情。
少し変わった間。
相手役との呼吸。
そうした「前回との違い」を見つけることそのものが、舞台を観る楽しさなのだそう。
映画やドラマでも同じことが起こるだろう。
監督が「OK」を出したその瞬間の演技は、役者同士の呼吸が偶然ぴたりと重なった結果かもしれない。
テレビでNG集が特集されるのも、単に失敗を笑うためだけではない、と私は思っている。
失敗の中に、予定していなかった表情や言葉が生まれ、それが作品をより魅力的に見せる瞬間があるからこそ、人はその映像を見たいと思うのではないだろうか。
私は、演劇の魅力とは、この「不確実性」にあると思っている。
人間が関わるからこそ、誰も完全には予測できない。
そして、その予測できなさが、ときに作品を脚本以上のものへと育てていく。
しかし、この「不確実性」は、演技だけから生まれるものではない。

不確実性は舞台の外にも……
ここまで、演劇の不確実性が作品の魅力を生むことについて書いてきた。
けれど、その不確実性は、舞台の上だけで都合よく起きてくれるものではない。
役者同士にも、スタッフにも、観客にも、それぞれ異なる考えや感情がある。
人間が共同で作品を作る以上、舞台の外まで予定調和になるとは限らない。
私自身、大学時代に劇団を立ち上げ、公演を行ったことがある。
けれど、その活動は、自分たちが思い描いていたようには進まなかった。
意見が食い違い、互いの考えていることが分からなくなった。
私は相手との衝突を避けるために、できるだけ言葉を尽くそうとした。
何を考えているのか。
なぜそうしたいのか。
どこなら譲ることができるのか。
言葉にすれば、きっと分かり合えると思っていた。
しかし実際には、言葉を尽くせば必ず理解し合えるわけではなかった。
相手を納得させられる言葉を、私が持っていなかったのかもしれない。
相手もまた、自分の感覚を私に伝える言葉を、まだ持っていなかったのかもしれない。
あるいは、そもそも二人が同じ言葉を、同じ意味では使っていなかったのかもしれない。
私たちは、衝突を避けようとしていた。
それでも、うまくいかなかった。
この経験を振り返ると、演劇の不確実性とは、結局のところ人間の不確実性なのだと思う。
演劇は、人間の想像力や感情、予想外の反応に期待する表現である。
役者が台本を超えた表情を見せること。
スタッフの工夫が、想定以上の場面を作ること。
誰かの発想が、作品を思いがけない方向へ導くこと。
そうした「予定外」を魅力として受け入れる以上、その不確実性を舞台上だけに閉じ込めることはできない。
人間の予測できなさは、作品を豊かにもする。
同時に、意見の食い違いや衝突も生む。
演劇において、その二つは切り離せないのだと思う。
だから今回の出来事についても、私は単純に「誰が悪かったのか」という問いだけでは捉えきれないと感じた。
誰か一人が努力し、誰か一人が努力しなかったというよりも、関係する人々が、それぞれ少しずつ違う方向を向いていたのではないか。
一人ひとりの熱量が不足していたのではなく、その熱が向かう先を、最後まで一つにまとめきれなかったのではないか。
もちろん、不確実性という言葉で、誰かの言動や責任まで曖昧にしたいわけではない。
ただ、人間が共同で作品を作る以上、そこでは必ず、意図だけでは制御できないものが生まれる。
演劇の怖さは、舞台の失敗だけではない。
人間の不確実性に期待して作品を作る以上、その不確実性は、作り手同士の関係にも現れる。
そして、その危うさまで含めて、演劇なのだと思う。
おわりに
演劇は完成品ではありません。
人間が集まり、
人間が失敗し、
人間が補い合って、
初めて成立する芸術だと、私は今も考えています。
私は、演劇の不確実性を愛しています。
けれども一方で、演劇の不確実性を恐ろしいとも感じています。
私が大学生の頃に立ち上げた小さな劇団は、今もまだ名前だけを残しています。
今はまだ舞台の明かりを浴びる勇気はなく、私は観客として演劇を見つめています。
それでも、演劇に関わる誰かが、その経験によって演劇そのものを嫌いになることはありませんように。
人間は複雑です。
だから演劇も、複雑なのだと思います。

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