文学にそれなりに興味のある人なら気が付くかもしれません。此奴、また太宰語りしようとしてるぞ、と。
許してください、ようやく休みが取れたのに、一日休んですぐにバイトと大学とが始まってしまって、精神的に参っているんです。
好きなものについて話すとストレス発散になるんですよね……。
さて、余談はここまでにして。今日は坂口安吾の「不良少年とキリスト」です。太宰先生の作品の感想文をブログにあげるときは、大体ここから言葉を引用してるので、もうすっかり記事にしたものだと思ってました。
坂口安吾と太宰治は長くの友人というわけではなかったようです。
それでも亡くなった時には言葉をかけ、互いの作品を愛し、同じ時代を共にした彼らの友情には羨ましいという感情が起こります。
私も友人と遊びに行ったり、何か活動したかったな……バイトづくしで毎日家と大学とバイト先の往復です。
付き合いの長さやあった回数で友情は決まりませんが、その出会いの場が奪われていると考えるとかなりメンタルにはくるものがあります。
自分語りはそこまでにして、本題に入りましょう。今日は坂口安吾「不良少年とキリスト」の感想と個人の考察です。
坂口安吾
代表作は「風博士」「日本文化私観」「堕落論」
小説家であり、随筆家であり、そして評論家でもありました。
経歴を見ると若い頃からかなり破天荒な人といった印象。
代用教師を一年やったり、映画の嘱託をやったり、かと思えば作家になったり……。
カレーを百人前頼んだり、鉄板に手を押し付けたり……。
普通に作品を読むより、この人の人生を追った方が面白い話が出てきそうです。
坂口安吾について普段通りまとめようと思ったんですが、彼については私の記事を見るよりも↓のリンク先に飛んでいただいた方が面白いです。
無頼派
戦後の近代既成文学全般への批判に基づき、同傾向の作風を示した一群の日本の作家たちを総称する呼び方です。
象徴的な同人誌はなく、範囲が明確かつ具体的な集団ではありません。
呼び名は坂口安吾の「戯作者文学論」からきています。
同書にて坂口安吾は漢文学や和歌などの正統とされる文学に反し、俗世間に存在する、洒落や滑稽と趣向を基調とした江戸期の戯作の精神を復活させようという論旨を展開しました。
不良少年とキリスト
太宰治への追悼文。
太宰治がどういう人柄であったか、どういう作家であったか、対等な立場であった坂口安吾の目線から見た太宰文学が語られている。
好きだった言葉
歯が痛い、などゝいうことは、目下、歯が痛い人間以外は誰も同感してくれないのである。人間ボートク! と怒ったって、歯痛に対する不同感が人間ボートクかね。然らば、歯痛ボートク。いゝじゃないですか。歯痛ぐらい。やれやれ。歯は、そんなものでしたか。新発見。
青空文庫/坂口安吾 不良少年とキリスト
新聞記者のカンチガイが本当であったら、大いに、よかった。一年間ぐらい太宰を隠しておいて、ヒョイと生きかえらせたら、新聞記者や世の良識ある人々はカンカンと怒るか知れないが、たまにはそんなことが有っても、いゝではないか。本当の自殺よりも、狂言自殺をたくらむだけのイタズラができたら、太宰の文学はもっと傑れたものになったろうと私は思っている。
青空文庫 / 坂口安吾 不良少年とキリスト
感想
私が初めて「不良少年とキリスト」に触れたのは中学生の時でした。その時はなぜこんな大それたタイトルなのかも、太宰治への痛切な批判もよく理解できませんでした。恐らく今ほど、坂口安吾と太宰治の関係性について理解していなかったからでしょう。
弱者としての文学の完遂
太宰は、M・C、マイ・コメジアン、を自称しながら、どうしても、コメジアンになりきることが、できなかった。
青空文庫/坂口安吾 不良少年とキリスト
檀一雄の書いた「小説 太宰治」を読んでから坂口安吾の「不良少年とキリスト」を読むと、理解しやすいと思います。
「小説 太宰治」では太宰治の死因は「文芸の抽象的な完遂の為」と書かれています。
この文藝の完遂と言うものが私にはわからなかったのですが、最近とある理由からわかるような気がしてきました。
つまり、文芸の完遂とは、太宰文芸の完遂とは、弱さの象徴としての文学の構築でした。
弱者の友なんだ。芸術家にとって、これが出発で、また最高の目的なんだ。こんな単純なこと、僕は忘れていた。僕だけじゃない。みんなが、忘れているんだ。
青空文庫/太宰治 畜犬談 ―伊馬鵜平君に与える―
弱者の象徴として生きるのは難しい。
現代で例を挙げるなら、LGBTQ+やフェミニズム、男女差別などでしょうか。どの問題も、今まで虐げられてきた人々が声をあげて、漸く社会に問題として認められた問題です。しかし昨今、その問題を声高に主張しすぎるせいで、本当に弱者なのか? と訝しむ声が上がり始めました。
ジョーカー フォリ・ア・ドゥの感想文でも書かせていただきましたが、この世界の強弱構造は「強者」「弱者」の二項対立ではなく、じゃんけんのようなものなのです。誰もが誰かよりも強く、誰もが別の誰かよりも弱いという立場を持っています。
そんな複雑な社会の中で、完全な「弱者」に寄り添った文学を描くのは難しい。
生きている限り弱者にはなれないんです。自身の辛さを主張しても、誰かの辛さを代弁しても、いつまでも「それでもお前は生きているじゃないか」という非難が付きまとう。
本当の弱者は、発言をすることも、自身の問題を認識することもできないものだからです。
しかし私はこうも思います。他人と自身の苦しさを比較するのはナンセンスだと。
その人の苦しみはその人と同じ感性で同じ経験をした人にしか理解できない。飢餓や貧困がもっとも苦しい人もいれば、尊厳を破壊されることがもっとも苦しい人もいる。
人の苦しみよりも自分の方がもっと辛い、などとは簡単に言えるはずがないんです。
いじめに遭って自殺した学生に「今いじめられている俺の方が辛い」と言える人はきっといません。
飢餓に苦しんだ人に「俺の空腹の方が苦しい」と言える人もきっといません。
なぜなら生きている人間にとって、死ぬということが一番の苦しみであることを本能的に理解しているからです。
「死人に口なし」という言葉のように、生きている人間は死んでいる人間が弱者であることを認識しています。発言する権利がない。苦しいこと、嫌なことを発言する権利が無いから。
太宰治は自殺したことで自らの命を絶つ代わりに、今後の発言権を失う代わりに、弱者としての絶対的な地位を確立しました。
自殺は、それまでに描かれた太宰作品を弱者の言葉と成した、成してしまったのだと私は考えます。
打倒 弱者教祖の文学
さて「不良少年とキリスト」はそんな絶対的弱者となった太宰治に愛という名の石を投げつけます。
イエス・キリストは「姦通の女」ヨハネによる福音書において「罪のない者だけが石を投げよ」と仰ったそうです。その言葉の通り、太宰治の死には多くの作家が死を惜しんだ。彼を知っている作家は追悼文を書いた。
さて「不良少年とキリスト」で太宰の死を批判した坂口安吾は「罪のない者」だったでしょうか……いいえ。
太宰治は坂口安吾を頼らなかった。坂口安吾は太宰治の自殺を止められる人間ではなかった。すべてに絶望して、自死を選んだ太宰治の希望になり得なかった。
新聞記者は私の置手紙の日附が新聞記事よりも早いので、怪しんだのだ。太宰の自殺が狂言で、私が二人をかくまっていると思ったのである。
青空文庫/坂口安吾 不良少年とキリスト
わざわざこんなエピソードを乗せるほど、太宰治を匿ってしまいたかったと、頼ってほしかったという坂口安吾の気持ちが伝わってくる気がしました。
太宰治が弱者の教祖になってしまうこと、それは神のような存在になってしまうこと。坂口安吾にとって防ぎたいことだったのだと思います。
太宰治はただのクズではない。普通の人が悩むことのない問題に悩み、神経質に心を病み、人の顔色を伺い、常識に生きようとした普通の人間であることを示すために、あえて太宰文学に石を投げたのではないでしょうか。
これは友人として、友人を人間でいさせるために投げた石だったのだと思います。
檀一雄は太宰の狂信者的な一面もありましたから、太宰の死について壮大な理由付けをしようとしました。その理由付けも的を射ていたのだと思います。けれども酒に酔い、悲しみに暮れた太宰にそこまで計算高く考えることができたなら、自死という決断はしなかったような気もする。そうして太宰が死んだことによる檀一雄自身の混乱を落ち着かせようとしたのだとも思います。
一方で坂口安吾は太宰の死に理由付けをしようとしなかった。死は死でしかない。太宰治は人間を失格していない。人間として生き、悩み、そうして死んだ。ただの人間であると、キリストのような神ではないと証明するために、批判したのだと思います。
神ではないから、太宰治の欠点を列挙しました。太宰が弱者として完全無欠な存在ではないから、太宰の作品を痛切に批判したのです。
その批判は言葉の訂正などの細かいものではありません。志賀直哉が言った揚げ足取りのようなものではなく、作品全体の太宰の苦悩に対する批判でした。
誰もが素通りする問題を、太宰治は執拗に考え悩み続けた。その苦悩が太宰の文学を文学たらしめた。そんな太宰文学を坂口安吾は愛していた。けれど執拗に苦悩に溺れすぎて、その苦悩が文学に滲み出てしまう。時々に文学上に出てくる太宰自身の顔を坂口安吾は批判したのだと思います。
作品は作品、作家は作家であれ、と。
「不良少年とキリスト」を読んでいただければわかりますが、随所に死なないでほしかったという感情が伝わってくるんです。
彼らの文学は本来孤独の文学で、現世的、ファン的なものとツナガルところはない筈であるのに、つまり、彼らは、舞台の上のM・Cになりきる強靭さが欠けていて、その弱さを現世的におぎなうようになったのだろうと私は思う。
青空文庫/坂口安吾 不良少年とキリスト
結局は、それが、彼らを、死に追いやった。彼らが現世を突ッぱねていれば、彼らは、自殺はしなかった。自殺したかも、知れぬ。然し、ともかく、もっと強靭なM・Cとなり、さらに傑れた作品を書いたであろう。
ファンだけのためのM・C
太宰はフツカヨイ的では、ありたくないと思い、もっともそれを咒っていた筈だ。どんなに青くさくても構わない、幼稚でもいゝ、よりよく生きるために、世間的な善行でもなんでも、必死に工夫して、よい人間になりたかった筈だ。
青空文庫/坂口安吾 不良少年とキリスト
それをさせなかったものは、もろもろの彼の虚弱だ。そして彼は現世のファンに迎合し、歴史の中のM・Cにならずに、ファンだけのためのM・Cになった。
太宰治のファンとは苦しむ人間だと思います。
現世ではSNSが普及したことで、誰もが愚痴や不満を表せる世の中になった。けれども多くの人の中には現実にも、SNSの場でも弱音を吐けない人間がいる。
人知れず誰にも言えない不安を抱えて苦しんでいる人がいます。将来のことがますますわからなくなっていく世の中なのに、早く大人になれと急かす社会についていけない人がいる。
太宰の文学はそういう人の心に寄り添う文学であると思います。
御伽草子や走れメロスなんかを読んでいると、きっと大衆に向けた文学を書くこともできる力のある作家だったはずです。
それでも太宰の自殺は、太宰文学を弱者のための文学として君臨することにしてしまいました。
「ファンだけのためのM・C」とはそんな弱者のための文学になってしまったことを悔やむ文章であると感じます。
私もそうですが、大衆に向けた文章も弱者のための文学も含めて太宰文学に惹かれてしまう。
それはもう止めようのないことです。好きになることは止められない。
最後の抵抗として投げられた太宰文学への愛の石が、坂口安吾の「不良少年とキリスト」でした。
余談ですが、不良少年とキリストについての考察は 夢に溺れる覚悟「魚服記」太宰治 にても書いているので是非ご覧ください。
P.S 眠眠打破とQPコーワとヘパリーゼとヤクルト1000でデパス錠を飲み干すと動悸がきこえる。
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