読書ノート20冊目「恩讐の彼方に」菊池寛作

日々雑記

私は本を読んでから感想を書くまでにかなりの時間を要します。
いろんな本を読んで、ちょっと前に読んだ本に戻ってきて感想を書く。
小説だとその時間が短いのですが、詩や絵画など抽象的になればなるほど、感想を書くのが難しいなぁと思います(´・ω・`)

本を読む、文章の美しさに触れる、ということが自分の中で点を打つ行為で。
別の作品の美しさに触れて、前に打った点と今日打った点が線になった時に、漸く感想が出てきます。
まぁ、何が言いたいかって、インプットが極端に足りないのですよね……。

さて、そんな私の読書ノートもようやく20冊目。今日はずっと前に読んだ菊池寛の作品。

私が近代文学を読むようになったのは中学生からでした。
といっても中学生の読書なんて
「俺はこんなに難しい本読めるんだぜ、すごいだろ( ・´ー・`)ドヤ」
な部分が強くて、ちゃんと内容を理解していたかと言われると……💦

最初に読んだものは太宰治の「人間失格」。
その後に谷崎潤一郎(太宰治の隣にあったから)を読み、芥川龍之介(太宰治の傾倒していた作家だったから)を読みました。
そうやって、私にとっての近代文学が花開いて行ったんです。
そんな風に作家を追っていくと、また別の作家に出会える。
今は志賀直哉を読み、久米正雄を読み、でも太宰治に戻り、なんて生活をしています。

彼らの紡いだ言葉は、中学時代、高校時代、読んだ当時には分らなくても、ふとした瞬間に降って来ます。今日更新ですが読んだのはずっと前。
記念すべき20冊目だから、そしてブログの70記事目だから、「恩讐の彼方に」を選びました。



菊池寛

代表作は「無名作家の日記」「恩讐の彼方に」「忠直卿行状記」など。
芥川龍之介らとともに第三次、第四次新思潮の刊行に参加、1923年に文藝春秋社を創設しました。
日本文藝家協会を組織し、芥川賞、直木賞、菊池寛賞を創設――今も続く文学の風土を整えた人物です。

参考サイト↓

菊池寛|近代日本人の肖像
国立国会図書館の「近代日本人の肖像」では、菊池寛の肖像写真・関連書籍等を紹介しています。
菊池寛記念館|高松市

経歴を見ると華々しい功績が並んでいますが、その裏には多くの努力と根気があったのではないかと思いました。
そう思うのは「恩讐の彼方に」の作風から感じ取ったものの影響も多いかもしれません。
彼は自身の功績だけで満足することなく、自身の後輩の為にも惜しみなく力を尽くした人物でした。

恩讐の彼方に

あらすじ

主殺し、追剥ぎ、殺人と罪を重ねた市九郎は、良心の呵責から出家した。
自身が重ねた悪行の分、それ以上に、人に尽くし人を救うと決めた市九郎。
山國川の水難事故を見て、人々がこれ以上水難しないように、三町にも及ぶ岩壁に道路を作ろうと決心する。
一方、かつて市九郎の主が父であった実之助は、敵を討たんと市九郎を探し回っていた――。

好きだった言葉

市九郎は、十日の間、徒らな勧進に努めたが、何人なんびともが耳を傾けぬのを知ると、奮然として、独力、この大業に当ることを決心した。彼は、石工の持つ槌とのみとを手に入れて、この大絶壁の一端に立った。それは、一個のカリカチュアであった。

青空文庫 菊池寛 恩讐の彼方に

市九郎は、また独り取り残されねばならなかった。彼は、自分のそばに槌を振る者が、一人減り二人減り、ついには一人もいなくなったのに気がついた。が、彼は決して去る者を追わなかった。黙々として、自分一人その槌を振い続けたのみである。

青空文庫 菊池寛 恩讐の彼方に

カリカチュア……人物の性格や特徴を際立たせるために誇張や歪曲を施した人物画のこと。

感想

狂気的な献身は過去の悪行を清算するだろうか、というのが初めて読んだ時の感想でした。
私自身、かなり捻くれた人間なので、たとえ善行でも「悪行の清算のため」という前置詞がつくと、素直に市九郎を肯定できなかったというのが当時の私の心情です。

多くの文学作品に触れ、菊池寛について知った時、この話の主題はそこではないと気が付きました。
一見すると仏教説話的にも見られるこの作品、最も大事な部分は忍耐だったのではないか、と感じたんです。

そもそも殺人にせよ、追剥ぎにせよ、主殺しにせよ、全ては人間の世界のルールを違反した行いです。
地球上の、無法の地に、生きるためのルールを勝手に創設した、それが善悪の概念。
だから、この作品における善悪は動機であって、テーマではないのだと思い直しました。

Wikipediaなどで菊池寛について生い立ちを調べると、素晴らしい功績と共に多くのつまずきについても記載されています(それが正しい情報かはさておき、一度覗いてみてほしいです)
人間の一生には上り坂もあれば下り坂もあり、平坦であっても立ち止まらなければならないことがあります。
一種、リスクを思いながら進む人生というのは盲目的な狂気が無ければできない所業です。
信じて進んだ先に、成功というものが待っている……「かもしれない」わけです。

本当に素晴らしい人生とは、重ねた善行・悪行の数ではなく、目標のために如何にして生きるのかだという教訓を学びました。
「素晴らしい人生」には、自分自身にとって、という前提があるわけですが。
今の時代、多くのルールがあって、多くの法がある。場所が変われば、縛るルールが変わる。
自分自身がどうやって素晴らしい人生を送るのか、この現代では多くの方法があり過ぎる。
堅実に生きるのも、一発逆転を狙うのも。

ただ目標のために無我の境地にまで達することができたならば、それは素晴らしい人生と言えるのだと思います。

個人的な話に変りますが、ブログを続けてもう一年半経ちました。
記事はまだ70記事。そして読書ノートは20冊目です。
このまま進むべきか、と悩むこともある毎日ではありますが、「恩讐の彼方に」のように無我の境地に達するまで、続けてみるのもいいかもしれないと思っています。
勿論、目標を持たなければただの雑談なのですが。今後も適度に更新を続けていこうと思います。



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