織田作之助青春文学賞落選小説「神の腕」

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 芹沢は馬からおりて梶無川を眺めていた。梶無川は清らかに流れていた。芹沢はその日、村を回り歩いて不思議な噂を耳にした。梶無川に馬の尻尾を切り取る浮浪者が住みついているという噂である。馬を盗む者であれば解決せねばならない。しかしほんの少し馬の尻尾の毛を切り取るらしいのである。村人たちは気味が悪いと言っていた。

 思うことがあり、芹沢はその場で立ち止まった。すると歩き疲れたらしい馬は梶無川に口を近づけ水を飲み始めた。芹沢は馬の整えられた毛並みを撫で馬から離れてみた。背を隠すほどに伸びた草の中に身を隠し、馬の様子を眺めていた。

 しばらくした頃、馬を撫でまわす腕が現れた。持ち主は芹沢から見えない馬の側面に回り込んだようで、その顔は見えなかった。腕の持ち主はチッチッチと猫をあやす様に馬をなだめていた。尻尾を切り取る決定的な様子を目撃するべく、芹沢は馬の尻尾に注目した。腕は胴体から撫でるように尻、尻尾へと下りていき、整えられた毛並みをさらに整えるように右の手が尾を梳いた。かと思うと逆の手で煌めく刃を取り出したため、芹沢は仰天して草の中から飛び出した。

 それは小柄な男であった。その姿をしっかりと目撃したことでさらに芹沢を驚かせたのは、盗人の右手が茶色く変色していたためである。妖か、狐か。ためらうことなく芹沢は彼のその右手を切りつけた。

 切られた腕は血が出ることもなく、痛みに声をあげることもなく。その盗人は芹沢から逃げていった。

 芹沢は屋敷に戻った。今日のことを記録していると馬の番をしていた小僧が、連れていた馬の尻尾に何かついていると知らせた。芹沢は頭を抱えた。それは切った男の腕だったのである。執念深くもまだ馬の尾を掴んでいた。気味悪がった小僧の代わりに、芹沢はその腕を尾から離した。

 馬の尾を掴んでいる指を一本ずつつまみ緩めていく。持ち主から離れているにも拘らず、その腕は脈打ち、人間の体温も持っていた。最後の指を尾から離した時、ふっとその温かみは消え、無機質な冷たさが指先に伝わった。その腕には木目が現れた。巧みにつくられた木彫りの腕に変わったのである。あまりの気味の悪さに芹沢はその腕を後日、寺社に預けようと考えた。

 その晩の事であった。腕の持ち主が芹沢の元を訪れたのである。門番に止められ名を尋ねられると持ち主は

「梶無川で屋敷の主に腕を盗られた者でございます」

 と答えた。芹沢は眠い目を擦りながら、身支度を整え、その男と面会した。

 相対したその男は童のように小さな身であった。さらに腰が曲がっているために、年老いたようにも見える。所々穴の開いた、茶色く汚れた布をかぶり、その頭には一本の毛髪もなく、目玉が半分出かけていた。醜いとはこのような男のことを言うのだろう、と芹沢は慄いていた。

「腕を返していただきたいのです」

 男は口を開いた。その口からは屎尿の匂いがした。芹沢は目の前の男に無礼を働かぬよう、自身の腿をつねって不快な気持ちを顔に出さぬように努めた。切った腕に触れた時から、自身が切った男は川の主であったのではないか、つまり神に相当する者だったのではないかと悩んでいたのである。側使に命じて、切り落とした腕を男の前まで持ってくると、男は腕になにやら薬を塗り付け、腕をもとの位置につけ直した。すると先ほどまで木彫りの腕だったそれは、男の意志のままに動くようになっていた。男は芹沢に見せるように右手の指を一つずつ折りたたみ、一つずつ開いて見せた。芹沢は笑みを絶やさぬように口角を歪ませていた。

「もし、貴方様が切ったのが右手でなかったならば、儂は死んでいたところでした」

 男は丁重に頭を下げ、お返しいただき、と感謝の意を込めた。

「無礼を承知で尋ねるが、その腕は」

「創り物でございます」

 芹沢は男の腕をもう一度確かめた。茶色く変色してはいるものの、人間の腕として、肉が動き脈打っている。

「その腕を作った者は大層な医師か、技工か……」

 芹沢は失礼に当たらぬように慎重に言葉を選んでいた。言葉を放つごとに脳裏に浮かぶのは、彼が話をしてきた村の人々の顔、梶無川の清らかさ、そして自身の首が飛ぶ姿であった。男は芹沢の態度に気を良くしたようで、目を細め、口の端を持ち上げると掠れた声で言った。

「儂は河原者。この右腕を除いては、ただの河原者でございます」

「右腕は」

「儂はこの右腕を、恐れ多くも神の腕だと思うとります」

 そう言って、男は身の上を話し始めた。

「儂は生まれから河原者でございました。父は名もなき百姓。母は、それはそれは恐ろしく心の清らかな女でありました。儂は生まれ落ちた時には右腕がございませんでした。父は使い物にならん、梶無川に流してしまえ、と申されたそうで、母は腹を痛めて生んだ子を流すなどできず途方に暮れていたと言います。そうして辿り着いたは川の端に捨て置かれた小さな祠。そこには忘れ去られた水神様がいらっしゃったのだと母は仰います。三日三晩、その祠にて子の腕を祈りますと、四日目に村に旅人が現れました。その旅人は浮浪者、河原者のような風貌をしておりまして、その身は細々と骨が浮き、衣服は泥を被っていたといいます。その御方は宿を一晩尋ねてきました。小さな村でしたから、宿など大層なものはなく、母は粗末な事しか出来ぬが、と言うてその御方を泊めたのでございます。不思議な御方であったといいます。近づくのも躊躇われるほどの匂いがし、衣服も水で落とせぬほど汚れていたにもかかわらず、ただ一度覗いた顔はとても美麗だったと。母は粗末に扱ってはいけないと働き、つくしたのだといいます。その御方はただ一度、籠の中に入れられた幼い儂をみて頭を一つ撫で『可哀そうに』と仰ったそうで、それきり何も言わなかったといいます。その晩、母が川の音を耳にしたそうです。不思議に思った母が確かめると旅人はいなくなり、儂の腕が生えておったそうでございます」

 男は右腕を上げ、指を曲げて見せた。

「母の言うことではその御方は水神様だったのだろうと。それ以来母は家の事の合間合間に川へ出かけ、落ち葉や泥を除き、儂を育ててくれたのでございました」

 芹沢は梶無川の清らかさを思い出した。つい数年前に移ってきた芹沢は男の母のことは知らなかったのだ。

「それは大変申し訳ないことをした。神の腕を切りつけるなど、無礼を許してほしい」

 芹沢が丁重に頭を下げると男は慌て、河原者なんぞに頭を下げてはいけない、と言った。

「先刻申し上げました通り、儂は河原者じゃあ」

 男は自身を卑下するように、膝を付き、頭を地にこすりつけた。そのへりくだった態度に、芹沢は先ほどまでの緊張が幾分か吹き飛んだ。そうして思っていた疑問を男に尋ねることにした。

「なぜ馬の尻尾を切り取るなどということを成されていたのだ」

 男は膝をついたまま、顔だけを芹沢に向けた。そうして口をもごもごと動かした後、怯えるように一言

「人形を作ろうと思ったのでございます」

 と呟いた。その耳は紅潮しており、言い終わるとすぐに顔を隠してしまった。

「このような身なりであれば、女子供から髪を貰うことなどできず、髪を買う金もなく……」

「なぜ人形を作ろうと思ったのだ」

「母が耄碌しているのでございます。ものを忘れ、幼子の様になってしまう病にございます。そうであればと人形を与えてやりたかったのですが、恥ずかしくも本当に貧しい身なれば、せめて不器用ながらも作れはしないかと」
 そう続けた男の様子には先ほどまでの妖しさはすっかり消えてしまっていた。芹沢は自然に笑みがこぼれてしまった。

「その腕はどれほどなのか」

 芹沢が尋ねると、男の目には再び妖しい光が宿った。男は自信からくるのか、羞恥が抜け、真っ直ぐに芹沢を見つめてきた。

「まだ人に見せたことはありませんが、よくできたものだと思うております。この腕は『神の腕』にありますから」

 芹沢は男の狂気的な目に一瞬の迷いがあることを見逃さなかった。そして男がその迷いを隠そうとしていることにも気が付いた。腕への絶対的な自信、一方で河原者と自身を貶す卑屈さ、この二つが共存する人間性に芹沢は惹かれていたのであった。

「で、あれば。一度その腕を見せては貰えぬだろうか」

 芹沢の申し出に男はまた地に頭をつけて承諾した。

 その日以降、芹沢の屋敷には魚を模した木彫りが届けられるようになった。屋敷前の梅の枝に供えられるようにして魚がぶら下げられていた。芹沢はそのうちの一匹を屋敷に飾り、一匹を水神の祠に奉納した。

 その木彫りは本当に素晴らしい出来であった。木彫りとは思えぬほど、息吹く魚の生々しさ。鱗が光に当たり、一枚一枚違う輝きで反射した。魚は泳いでいる様を一瞬切り取ったように、胴をくねらせ、身をひるがえし、ヒレの躍動を顕していた。芹沢は男を呼び寄せた。

「この魚を売ったりはしないのか」

 男は首を横に振った。

「この腕は『神の腕』でありますれば、身を肥やすために利用するのはよろしくないことでございましょう」

 芹沢は男の言葉を嘘ではないと思った。しかしやはり何か隠しているとも感じた。芹沢はそれ以上、追求することは無かった。勿論、芹沢も男の意向を尊重し、魚を売ることもしなかった。

 男はそれ以降も魚を芹沢に献上した。どの魚も水に浸せばすぐに泳いで逃げてしまいそうなほどに秀逸な作であった。ただ一度、ほんの気まぐれで芹沢は魚を屋敷の訪問者に見せたことがあった。芹沢は深く後悔した。その魚は見た人を魅了したのである。それは狂ったようであった。一度見せたことで、その人は後も魚を目で追った。何の話をしても心ここにあらずと言った顔であった。しつこくどこで手に入れたものか聞かれた。手に入れられないのならば、せめて誰の作かを判明させようとあらゆる手を使われた。魚が歌を歌い、夜も眠れぬと書状が届いた。それほど欲しいのであればと芹沢は男に許可を取り、来訪者に魚を一匹渡した。

「この腕は『神の腕』でありますれば、そのようなこともありますのでございましょう……」

 魚を作った男は悲しそうな目で芹沢の話を聞いていた。その男の目を見ていると芹沢は深い後悔に襲われた。そしてお詫びとしてある程度の生活できるよう、金を包んだ。しかし男はその金を受け取らなかった。その代わりに魚を渡す条件を加えたのである。

「これから毎日魚をこの屋敷に届けましょう。もしも魚が途絶えた時は、どうか私のことなど忘れてください」

 そうして男はその後も魚を届けた。しかし魚は神の腕で作られたと思えぬほどに不格好なものであった。芹沢はすぐにその魚が男の左腕で作られたものだと気が付いた。男を責めることなく、全ての届け物のうち、一匹を水神の祠に奉納し、一匹を屋敷に飾った。

 芹沢は男が左腕で魚を作るようになってから、魚が届くのが楽しみになっていた。これは芹沢には説明のできない感情であった。左腕で作られた魚はお世辞にも巧いとは言えない。子どもがお遊びで作ったような拙いものである。鱗の形も大きさもバラバラである。動きはなく釣りあげられ息絶えた魚のようだった。神の腕の作は動き出しそうな緊張感があったが、左腕の作はまな板の上の安らぎがあった。その魚たちは日を追うごとに「神の腕」に近づいていた。男の日進月歩が芹沢の楽しみになっていたのである。

 芹沢は一度村の見回りの後に男の家へと向かった。男の家は梶無川の流れに逆らって、上流の川辺にあった。それは芹沢の屋敷に比べると粗末この上なく、家には蠅が集っていた。芹沢は家の様相を見て訪ねることを躊躇したが、その一瞬で家の中から響く木を削る音が絶えぬことに気が付いた。シュッシュッ、シュッシュッ、金属と木が触れ、裂け、削れていく音。覗いてみると男は口を固く結び、深く呼吸をしながら左腕で一刀打ち込んでいる。その男の光景は神の腕で作られた魚を見た時以上に芹沢の息を止める気迫があった。神に近づかんとしている気迫である。男は一息つくと、いつの間にか目の前に座っている芹沢に気が付いた。そうして申し訳がなさそうに、大急ぎでもてなす準備を始めた。

「よい、よい。もうしばらく魚を見ていても良いだろうか」

 芹沢がそう言うと、男はまた作業に取り掛かった。男の後ろには何本もの魚の成り損ないが置かれていた。芹沢がその一つを手に取ると、男は左腕を止めて一言

「贋物が本物になることはできましょうか」

 と芹沢に尋ねた。芹沢は、魚が生まれていく様子を眺めながら男の問いを考えた。木彫りの魚はどうあっても生きた魚にはなれない。木彫りを川に浮かべても流れていくことはあれど泳ぐことは無い。この時、男はもう数年ほど左腕の作を芹沢に届けていた。はじめの作に比べれば、上等な代物になったが、それでもまだ神の腕には届かぬものであった。だが芹沢は左腕の作が好きであった。それは紛れもなく本物の感情であった。芹沢は男の問いに慎重に答えた。

「何を本物とするか、それに依るだろう」

 男は満足したように左腕を動かした。

 その問答以降、男の作は非常に挑戦的なものが増えた。季節の移ろいに合わせて魚が変わった。梅の花が咲くころ枝にはヤマメがぶら下がっていた。ヤマメの斑点模様が木目によって浮き上がった。梅の花が散り、葉緑が目に鮮やかな頃合いにはアユがぶら下がった。あらゆる自然が活気づく季節であるからか、ぶら下がったアユもまた先ほどまで泳いでいたような息吹があった。男の進歩が自身の事の様に芹沢は嬉しく感じた。

 芹沢はいたずら心で梶無川に魚を浮かべることがあった。泳ぎだせと木彫りに命じて少しの間手を放すが、やはり流されていくだけであった。それでも芹沢は満足であった。男の魚は水に沈む少しの間だけ泳いでいるように見えるのだ。そのうちすぐに水の上へ浮かんでしまうが、その一瞬は芹沢の不安をとるように清らかなのであった。

 男が魚を届けるようになって随分と年月が経った。魚は文字が書けぬ男からの近況報告であった。調子の良い時は活きの良い魚が届いた。調子の悪い時は魚からも魂が抜けていた。神の腕を意識した若い頃の作に比べれば、最近は穏やかな作が届いた。落ち着いた匠としての貫禄が魚から浮かび上がっていた。厳しい自然を生き抜いてきた力強さ、苦労の面持ち、魚の老いが作に現れているのだ。まるで神の創る無常の美への挑戦状である。その些末な変化を表現する男の腕と神への執念を芹沢は本物だと感心していた。

 ところがある日、ついに魚が届かなくなった。芹沢の不安が実現した日であった。神には老いはないが人間には老いが存在する。やがて死に土へと還る。これは神が人間に定めた不変の法である。芹沢は男の作を見ていると死への不安を感じずにはいられなかった。いつかこの無常の作が失われる不変の時を恐れていたのである。

「もしも魚が途絶えた時は、どうか私のことなど忘れてください」

 芹沢は魚が届かなくなって漸く男との約束を思い出した。しかし約束を守ることは出来なかった。屋敷の者たちに、その日の勤めを全て放棄してでも男を探すように命じたのである。芹沢もまた馬を走らせて村の隅から隅まで捜索した。その甲斐もあってか、梶無川の上流、虫の息であった男は芹沢の屋敷に運ばれたのであった。その左腕には二匹の魚が握られていた。

 男は芹沢の屋敷にて介抱されていたが、意識がはっきりしてくると芹沢に木彫り刀を握らせてくれるように頼んだ。芹沢は一度断ったが、男の目に気圧されて承諾してしまった。その目にはもう、以前の迷いは無くなっていた。やがて膝をついて芹沢の前に座ると、左前白装束に身を通して木彫り刀を左手側に置いた。

「貴方様の前に刀を置くご無礼をお許しください」

 芹沢は息を呑んで男の一挙手一投足を見守った。

「これから話しますは、儂の二つの罪。神への懺悔と過ぎたる力に翻弄された哀れな男の一生にございます」

 男は二つの罪を犯した。神の腕を授かった男は何をするにも優秀であった。田を耕せば豊作に、飯を作れば百姓の粗末な材料であっても上等な逸品が並んだ。博打に勝ち、暴れ馬をなだめ、村中の諍いをその腕を以てして納めた。男は手腕を買われ、戦に駆り出されることとなった。小柄な体は死から逃げ続けることができた。そして神の腕はどんな相手でも刺し殺すことができた。この時ばかり過ぎたる力に溺れたことはなかった。熟れた桃の実を潰すようにスルスルと刃が敵の身体を突き抜ける。刃の錆びなど知らぬように、幾人もの人を切りつけた。神の腕は男の思いのまま。否、思う以上に男の命を守るために幾多の命を摘んだ。ある時、刃が貫いた死体から赤い鮮血が右腕に流れた。右手は、親指と人差し指が赤黒く染まっていた。留まることなく、男の汗と混ざり肘まで流れていった。その時、男は我に返った。神の腕を血で汚してしまった、そう思った。その戸惑いと同時に彼の右腕は茶色く変わった。血が腐って黒くなるように汚れていった。神の腕としての機能はそのままに、汚れてしまったのである。これ以降、男は誰一人をも殺せなかった。生きるために戦場を逃げ回ることになった。

 命からがら辿り着いた元の村で、男は忌み子となった。変色した腕では人間扱いをして貰えなかった。実の父でさえ、梶無川に男を捨て、唾を飛ばした。男はそれ以降、梶無川の魚を食って暮らしていた。そんな男の元に母が訪ねてきたのである。母は戦に赴く前と変わらず、心優しいままであった。貧しい生家から少しの米と作物を届け、魚を採ることを手伝った。男は母の優しさに腹が立って仕方がなかった。

「お前が水神になんぞ、祈るからじゃ、儂はこんな、ヒトともなれん、神にもなれん身の上じゃ、こんな妖のような身の上じゃ」

 母が何かしようとする度に、男は殺してくれと懇願した。しかしそれは本心でなかった。腹が減れば魚を採って食った。小刀を左手に持って切腹しようとしたが、怖気づいて死ぬことは無かった。梶無川で溺れようにも、役立たずな腕が地を掴み這い上がってしまった。普通に生まれていれば、普通に死ねていたならば、そればかりが頭に浮かんだ。それでも男は生きていた。そして母は男の元に通った。

 そんな母もしばらくすると狂い始めた。男が妖となる前、幼子であった時の様に接した。男はそんな母を気味が悪いと感じていた。しばらくしてこれが病であると気付き始めたころには、母は男のことを忘れ、父を忘れ、村を忘れていた。元の村にはそんな母を養う人間は誰もいなかった。そうして母もまた梶無川に捨てられたのである。

 ある冬の事であった。男は食べるものに困り、村へ盗みに出かけた。神の腕は盗みの才覚をも発揮し、容易く食べ物を手に入れた。男はほんの些細な罪悪感から、とある家の木彫りの人形を盗んだ。そうしてそれを狂った母に与えた。木彫りの人形は母を魅了した。

「おっかさん、おっとさん、あはは」

 母は右手に人形を持ち、幼子がするように、床を歩くように動かした。食事時にはその口に魚を運んだ。右腕に赤ん坊を抱くように人形を持ち、左手を寝かしつけるように拍子うった。そんな母を見ると男は母が不憫で仕方なかった。母の頭を撫で、あやす様に

「すまなかった、腕を忘れて生まれてきたのは儂じゃ、力に溺れて水神様を汚したのは儂じゃ、返してくれ、右腕なんぞ要らんから、おっかあを返してくれ」

 と泣いた。男は盗みをやめようと思った。盗んだ人形は元の家に返した。食べ物を盗んだ家には魚を採って返した。しかし人形がなくなると母は粗末な家の床に仰向けに寝たまま、ぶつぶつと何かを呟き、呆然としていることが多くなった。ついに人間でなくなってしまったと、男は母を懸命に看病した。そのうちに男の頭には人形を作ろうと思い浮かんだ。

 芹沢に会ったのはその時であった。芹沢が男の腕を切った時、男は大層感謝していた。これで、もう、腕の力に悩まされることは無くなる。切りつけてきた芹沢が恐ろしくて息巻いたが、少し走ると足取りが軽やかになった。そうして大急ぎで家に帰り、呆然としている母に腕がなくなったことを告げたのだった。本当の地獄はここからだった。右腕が無ければ、母の看病など何もできなかったのだ。作る飯も不味く、幼子になった母は問答無用で吐き出した。母の服は吐き出された飯で汚れた。便所に行こうにも、母の身体を起こすこともできず、寝たまま糞尿を垂れ流した。癇癪を起す母をなだめることもできなかった。悪夢にうなされる母をあやす力もなかった。男は絶望して芹沢に腕を返してもらいに行ったのだった。

「貴方様に出会え、貴方様のために作を削る日々は、この一生で夢のような時間にございました」

 男は言った。そうして語った。母の最期を。

 左腕で木を削っている時、ふと母が男の名前を呼んだ。男は極限まで集中していたが、その声で糸が切れた。幻かもしれない。だって母は男のことを忘れてしまったのだ。しかし振り向いて母に縋りつき母の着物を濡らした。母の腹に還りたいと、声が枯れるまで叫んだ。足をばたつかせた。癇癪のままに火に掛けた鍋を右腕で叩いた。しかし母はそれきり何も言わなかった。叱りもせず、心配もせず、その顔は、あばら家に不釣り合いなほど穏やかで美しい顔立ちであった。

 その後は男の気迫を削ぐものは何もなくなった。近くを流れる梶無川も、蠅の羽音も、腐りかけた粥の匂いも、男を止めるものは何もなかった。

「芹沢様、儂の身体は汚れとります。自ら妖に身を落としました。死後も人間と扱われることは無いでしょう。しかしこの腕は『神の腕』。お返しせねばなりませぬ。どうかその役目を貴方様に負うていただけませんでしょうか」

 男が話し終わると、芹沢は男の頼みにただ頷いた。男は右手に木をとると、左手で木彫り刀を掲げた。

「これよりは儂の最後の作。最初にして、最期の一刀一品。神の玉座を奪う一罪をご覧に入れましょう」

 刃の切っ先はまっすぐに天へと向かっていた。

 男は死の淵に立たされて、何も失うものはなかった。木彫りをするうちに男は気が付いたのだ。右腕を削り、人間としての生を削り、母を削った。そうして今、命を削っている。男は自身の作が何一つとして後世には残らないことを確信していた。では何が残るだろうか。残らぬものを作っている、この世に。この身さえも残らぬこの世に何を残そうとしているのだろうか。屋敷のあちこちに木の削れる音が響いた。規則正しく、削れていく音が響いている。シュッシュッと生まれ、響き、消えていった。右腕が木を回す。左腕が巧みに動き、鱗の一枚一枚に輝きを宿した。男は呼吸さえ忘れていた。芹沢がかつて男の家で見たように、真一文字に口を堅く結び、瞬きもせず、その作に打ち込んだ。まるで妖のようであった。左腕は蛇の如くしなやかに美しくくねる。握られた刃はまるで牙。眼光は獲物を捕らえんとする鷹の様に厳しい。一つの間違いも許さぬとする気負い。芹沢はその姿を一つも見落とさぬように見続けた。しかし芹沢は人間である。瞬きせず、男を見続けることは無理であった。そしてその姿が、男の最後の姿であると思えば思うほどに、目の前の光景を直視することなど出来なかった。芹沢の目は渇きの痛み、心情の揺らぎで、畳に大粒の水跡を残した。男は芹沢と同じように水跡を作っていた。涙ではない。汗である。神に挑み、神を殺そうとする罪の代償である。全身から水の溢れようと男はなおも刀を入れ続けた。

 男の魚は鱗を宿しヒレを躍らせた。目を削り抜くと、ふう、と一つ溜息を零した。そうして男は顔を上げ、芹沢の顔を見ると安堵したように笑い倒れ込んだ。芹沢の前には一匹の魚が泳いでいた。芹沢は尊き友の約束を、今度こそは守るために、腕を振るった。

 芹沢は馬からおりて梶無川を眺めていた。梶無川は清らかに流れていた。いたずら心で、男の作った魚を流した。魚は梶無川を泳いでいった。

あとがき

この作品は、令和六年度の織田作之助青春文学賞に応募し、最終選考にて落選した作品です。
そして文学フリマ東京39で無料配布させていただいた作品でもあります。

作品が、作者の思うところで輝けなかったのは、作者の能力不足です。
だからこそ作者は最後まで、作品と向き合う必要があると思います。

さて、少しだけ蛇足を。
この作品は茨城県小美玉市にある手接神社の言い伝えをもとに作成した作品です。

手を継いだ河童の恩返し – 茨城の民話Webアーカイブ

芹沢に手を切られた河童が、手を返してもらえたために恩返しをした、という話。
私も大学の講義で知った話だったので、恐らく一般の知名度は高くないと思います。

作品の中で、名の無い男(河童)が「神の腕」に抗うように、作者の私も古くから伝わる「神話」に抗ってみよう、と思い立ち、描いた作品でした。
これを織田作之助青春文学賞に応募したのも、自分が敬愛する作家に、どこまで手が届くかを確かめたかったからです。
神話と敬愛する作家とに挑む気持ちを男の執念に描いたつもりでした。だから「命を削って作品を作る」のは私の等身大の姿です。決して、全て空想の気持ちを描いた訳ではありません。

悔しいと思います。悔しい。未熟なままに賞に応募してしまったことも、作品の中に自分を上手く落とし込めず読者に伝えられなかったことも、大好きな作品をここで埋めることも、何もかも悔しいです。

今となっては、男よりも、一人残された芹沢の気持ちに共感できるようになりました。
作者の手前味噌ではありますが、今までで本当に良く書けた、大好きな作品でした。
どうか最後まで読んでいただけたら幸いです。

そして我儘なお願いとはなりますが、感想を頂けましたら、今後の励みになります。感想お待ちしております。

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