信じるということの愚かさ「競馬」織田作之助

日々雑記

たまには違う作家を読もうと思ったのですが、感想を書きたい作品の作家が無頼派ばかりでした。
私のブログでは織田作之助は二回目でしょうか。前回は夫婦善哉を読みましたね。

 読書ノート12冊目「夫婦善哉」織田作之助

個人的には「夫婦善哉」より「競馬」の方が好きです。洗練されたリズム感があり、人間らしい突発的な感情の変化に合わせて、競馬の盛り上がりを表している気がします。

私は「文学的饒舌」から織田作をより読むようになりました。「文学的饒舌」では負けず嫌いであった織田作の作家としての気概が描かれています。誰に何と言われようと自身の思いを貫く姿勢は「競馬」にもありありと表現されています。

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織田作之助

戦後に活躍した大阪出身の小説家であり、太宰治や坂口安吾などとともに「無頼派」「新戯作派」として活動していました。
今回ご紹介する「夫婦善哉」にて小説家としての地位を確立し、「天衣無縫」「俗臭」などの作品を生み出しています。
戦時中には「青春の逆説」が発禁処分を受けました。

人の一生に注目した織田作之助の文章は、どことなく力強さがあります。
大阪という商人の活気づく街で、人を見ていた、彼の生涯故なのでしょうか。

作家別作品リスト:織田 作之助
織田作之助 | 著者プロフィール | 新潮社
織田作之助のプロフィール:(1913-1947)大阪市の仕出し屋の家に生れる。三高時代から文学に傾倒し、1935(昭和10)年に青山光二らと同人誌『海風』を創刊。自伝的小説「雨」を発表して注目される。1939年「俗臭」が芥川賞候補、翌年「夫...

無頼派

戦後の近代既成文学全般への批判に基づき、同傾向の作風を示した一群の日本の作家たちを総称する呼び方です。
象徴的な同人誌はなく、範囲が明確かつ具体的な集団ではありません。
呼び名は坂口安吾の「戯作者文学論」からきています。
同書にて坂口安吾は漢文学や和歌などの正統とされる文学に反し、俗世間に存在する、洒落や滑稽と趣向を基調とした江戸期の戯作の精神を復活させようという論旨を展開しました。

競馬 あらすじ

京都帝大出の中学の歴史教師、寺田は小心で律儀者。酒場遊びなど縁がなかったが、同僚に誘われて入ったカフェの一代という女給に入れ込み、ついに所帯を持つ。ところが一代に乳癌が見つかったことから一転。痛みにのたうち回りながら死んでいった一代の面影、とりわけ彼女が纏った男の影に嫉妬の情を抱きながら、ひょんなことから競馬にのめり込んでいく。

田畑書店 「競馬」織田作之助 より引用

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好きだった言葉

これだけは手離すまいと思っていた一代のかたみの着物を質に入れて来たのだ。質屋の暖簾
をくぐって出た時は、もう寺田は一代の想いを殺してしまった気持だった。そして、今日この金をスッてしまえば、自分もまた一代の想いと一緒に死ぬほかはないと、しょんぼり競馬場へはいった途端、どんより曇った空のように暗い寺田の頭にまず
いたのは殺してしまったはずの一代の想いであった。女よりもスリルがあるという競馬の魅力に惹かれて来たという気持でもなかった。この最後の一日で取り戻さねば破滅
だという気持でもなかった。一代の想いと共に来たのだということよりほかに、もう何も考えられなかった。

青空文語/織田作之助 競馬

これですかと男はいやな顔もせず笑って、こりゃ僕の荷物ですよ、「胸に一物、背中に荷物」というが、僕の荷物は背中に一文字でね。

青空文庫/織田作之助 競馬

感想

競馬の実況のようにテンポよく、そして競走馬の様子がわかる秀逸な作品でした。
残念ながら私は競馬をテレビで見たことあるだけの学生ですが、この作品を読んでいると競馬をしてみたくなりますね。テレビで見る競馬と競馬場で見る競馬は伝わる熱量や焦燥感、緊張感が違うんだろうなぁと感じます。

作品全体の構成も読者を惹きつけるリズム感を生んでいて、競馬場全体の雰囲気からクローズアップして主人公である寺田が映し出されていく。多くの人が疑惑と推測と仮説で馬券を買う中、ただ一人、馬も騎手も関係なく「一」を買い続けるという寺田の異質さを強調しています。
寺田の行動はある種の願掛けであり、妄信であり、寺田の心の弱さを表していました。

私の高校受験、大学受験の時に母が願掛けと称してよく玄関の掃除をしていました。良縁は玄関から入り込むんだそうです。受験の時期には玄関で靴をそろえるように怒られていました。
また毎年同じ神社に行って交通安全のお守りを買っていました。つい買いわすれた年に交通事故が起こるとお払いに行ったり。
信じるという行為は狂気的で、愚かな行為であると思います。
神頼みもルーティンワークも、科学的な根拠なしに人間は行います。「信者と書いて儲けと読む」なんて言葉にある通り人間の狂気は上手く利用されてしまうことさえある。
しかし一方で、信じていなければ、生きていけない生物であることも人間らしさなのだと思います。

主人公の寺田が「一番」だけに掛け続けた理由には自身の亡き妻一代の影がありました。
癌で亡くなった一代はもともとカフェの女給。死後一代の元に届く手紙から男の存在がちらつきます。
寺田は真面目な人物ですから、妻の裏切りを信じたくない気持ちがあったでしょう。自分が妻に一途であったように、妻も自分だけを見てくれていたと信じたい気持ち。
信じていても変わらない事実は存在するんです。
途中で登場する背中に「一」と刺青の入った男こそ、妻と裏切りをしていた人物でした。そうしてその男もまた「一」に賭け続ける人物でした。

寺田と男には共通点があるように私は感じます。それは「復讐」として「一」に賭けを続けること。
男が「一」に賭け続けるのは、人生の汚点である刺青への復讐でした。そして寺田にとっては裏切った一代に自分の一途を証明するという復讐です。
話の後半、寺田の中で復讐の怒りは忘れ去られ、一代への気持ちも忘れかけていく。それでも「一」に賭け続ける。
苦しみや怒りから解消されるために信じることを選んだのに、やがては目的を忘れ、ただ行為のみが残る――まるで宗教のようです。そんなことを繰り返して人間は現代まで歩みを続けてきました。
愚直さは人間の愚かな欠点であり、人間らしい部分であり、人間としての美徳なのかもしれません。

寺田は一代を失ったことで落ちぶれていきます。そんな寺田が唯一人間として生きていくために失えなかったものは信じる対象。信じていないと生きられないその心の弱さがよく表れています。

少し私の話に戻りますが、高校、大学と進学できた私は、母の願掛けが利いたとは微塵も思いたくありませんでした。母の願掛けのおかげだと信じてしまうと、なんだか私の努力が無意味になってしまう気がするからです。
それでも母にとっては効果があったんでしょう。ましてや子どもの受験という、自分の力では介入できない出来事で何とか心の平静を保ちつつ、応援する、手助けする方法が、母にとっての「玄関の掃除」だったのかもしれません。


私達は自分の力ではどうしようもできない困難に立ち向かう時、信じるという行動をします。愚かであり、美徳でもある「信じる」と言う行為に重きを置いた「競馬」は人間の豊かな心情を繊細に表しています。

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