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2024年5月19日に文学フリマ東京にて無料配布をした短編作品です。
無料配布に所在と作者を書き忘れてしまったので、ブログにて掲載しています(次回は気を付けます)
こちらの作品の動画サイト・SNS等での無断使用や無断頒布・自作発言などの行為は禁止しています。
ダウンロードは↓
本文「ある一日」
やってしまった。軽快に響く店内の音楽が更に焦らせてくる。急いで近くの床を見回した。来た道、辿った店内を探したがどこにも落ちていない。一歩一歩進むたびに、心拍数が上がっていく。足の裏に棘が刺さる痛みが走る。ない、ない、と勝手に呟く言葉の尻が揺れて涙まじりになってきた。目の前がふらつく。それとともに上半身もふらふらしていたらしい。近くを取り掛かった店員にぶつかりそうになった。自分が謝るよりも先に「申し訳ありません」とテンプレートが飛び出す様に怒りが沸く。
「……あの、この辺りに五千円札が落ちてませんでしたか」
目の前の店員は、少し驚いたように、自我を宿した言葉を漏らす。
「落としちゃったんですか?」
容赦のない言葉は信じたくなかった事実を叩きつけてきた。
「母さん、ゲーム買いたい」
「……次のテストでいい点が取れたらね」
「いい点って何点? 平均は取ってるし良いじゃん。ねー母さん、頼むよ。友達みんな持ってるんだよ」
「『みんな』って誰と誰と誰のことよ!」
どこの家庭でも繰り返されてるだろう、そんなやり取りをとあるゲームの発売日まで繰り返した。毎日言い続ければ折れてくれるだろうと思っていた親の根気は案外しぶといらしい。母さんがダメなら父さんに、と思ったが、父さんはいつものらりくらりと話を逸らした。買ってもらえない鬱憤をクラスメートに愚痴るしかなかった。
「わからず屋なんだよなぁ。ぼくがクラスでハブられたらどうするんだろうね」
そう言うとクラスメートはどっと笑った。
「そんなこと言いながら、それをネタに喋ってるんだもんなぁ」
「だってねぇ、そうするしかないじゃん。一言目には勉強、勉強ってさ」
「俺んちの母さんもそうだよ」
みんな同じ苦しみを持っている、というのが一層仲を良くさせた。別にゲームが無ければ無くても、その場にあるもので遊ぶのだが。手が届かないと思っていればほしくなるのは当たり前なのだ。
「……いっそのこと、勉強道具を買う、って言えば? お金くれるんじゃない?」
「うーんでも、参考書とか問題集ってゲーム程高くないじゃん」
三人寄れば文殊の知恵、とは言うが男子中学生が集まると考えるのは良くないことばかりだった。
「爺ちゃんとか婆ちゃんなら、問題集の値段とか分からんしいけるべ」
そういうもんかなぁ、と首をひねらせる。
「よし、じゃあ、お前やってみろよ。それでゲーム買えたら、お前んちに集まって遊べるし」
やりたくない気持ちが半分あった。うまくいかなかったら、怒られるという損を被るのは自分だけだ。しかし後に続いてお駄賃を貰う、という彼らの言葉に、やってやるか、男気見せるか、という気持ちになってしまった。仲間内で見栄を張ってしまうのはきっと年相応だろう。一度口にしてしまったことだけに引き下がれはしなかった。
玄関を跨ぐ。友人たちと別れた帰路。一人になると先ほどの決意は手のひらを返して後悔に変っていく。自転車を止め玄関を跨ぐと、後悔に焦りと羞恥が加わった。落ち着け、落ち着けと自分を諭しながら制服を脱ぐ。いつもは母さんに言われるまでほったらかしの制服を丁寧に、時間をかけながらハンガーに掛けた。リビングにはじいちゃんがいた。
「じいちゃん、あのさ」
その背中に声を掛ける。おかえり、と言葉が返ってきてから、じいちゃんは次の言葉を待っていた。
「あのさ、参考書、買いたくって、でも今月のお小遣いじゃちょっと足んなくってさ……」
じいちゃんはまっすぐに顔を見つめてきた。ニカッと笑顔を浮かべると財布を開いてこれで足りるか、と言いながらお小遣いをくれた。
五千円はピン札だった。皺ひとつない、綺麗な樋口一葉が財布から顔をのぞかせている。なんだか使うのがもったいない気もした。けれどもゲームの誘惑を止めるほどの効力はない。ありがとう! とこちらもにっこりと笑って見せた。ちらりと見えたじいちゃんの財布にはもうお札は入っていなかった。見えてしまった心苦しさを誤魔化すように自転車に飛び乗って家を出た。
店の入り口のすぐそばに自転車を止めた。鍵を掛けるついでに一度財布を確認する。その中に五千円札があることも。
店内に入って、目的の棚を見つけた。注目商品と大きく描かれたその棚に直行するのは子どもっぽい気がしたので、買う気もない問題集の本棚の前でまた財布を開いた。参考書を数冊手に取ってパラパラと開く。まるでお目当てのものではなかったと言いたげに溜息を一つ吐いて見せた。誰が見ているわけでもない。けれども湧き上がりそうな興奮を抑えるべく、やれやれ仕方がないという素振りをしながらゲームの棚へと向かう。
欲しかったゲームを手に取る。ウキウキしながら鞄から財布を取り出した。そしてその中に五千円があることを確認しようとした。けれどもその中に、目的のものは仕舞われていなかった。
おかしい、と思ってもう一度財布を見直した。けれどもない。次に付近の床を見た。ない。財布をもう一度……ない。さっきまで気にも留めていなかった店内の音楽が急に耳に届くようになった。そんなはずはない、と来た道を戻る。しゃがんで棚の下を探ってみる。けれども見つからない。一歩一歩進むたびに、心拍数が上がっていく。足の裏に棘が刺さる痛みが走る。ない、ない、と勝手に呟く言葉の尻が揺れて涙まじりになってきた。目の前がふらつく。それとともに上半身もふらふらしていたらしい。近くを取り掛かった店員にぶつかりそうになった。自分が謝るよりも先に「申し訳ありません」とテンプレートが飛び出す様に怒りが沸く。
「……あの、この辺りに五千円札が落ちてませんでしたか」
目の前の店員は、少し驚いたように
「落としちゃったんですか?」
と容赦のない言葉を叩きつけてきた。頷くしかなかった。店員は恐らく大学生なのだろう、研修中と書かれたネームプレートが胸元についていた。彼もまた、どうしよう、どうしたらいいんだろう、と不安を吐露し始めた。目の前の彼の不安も蓄積するように、自分の焦りは一層強くなっていった。
「ちょっと待っててね、わかる人に聞いてくるから。じっとしててね」
そう言って放置された。周囲の本棚が、迫りくるような圧迫感があった。たった数分の時間が、本当に長く感じた。もう何度も聞いた店内音楽のエンドレスループ。両親に説明しなければ、でもじいちゃんを騙したと知られてしまう、怒られるだろう、自分の思考も巡り巡った。今更、怒られないようにと言い訳を考える自分の悪意に飽き飽きしそうだった。
やがてバタバタとさっきの店員が戻ってきた。店長を引き連れていた。恥ずかしさで顔が熱くなる。熱を発散するように目から涙があふれてきた。さっきまで我慢できていたはずのものだった。
「嘘を吐くからそうなるのよ!」
電話の向こうで母さんは金切り声をあげていた。店の電話を使って、母さんの職場に電話を掛けた。店からの電話で母さんの寿命は十年縮まるかの如く驚いたらしい。もう嗚咽だけを発する僕の口では事情が話せなかった。「五千円を落とした」ことに加えて「じいちゃんを騙したこと」「どうしてもゲームが欲しかったこと」を店員は補完して話してしまった。母さんはそのまま仕事を早退して、ぼくを迎えに来た。店の外に置いた自転車を、店員が車に積んでくれた。何から何まで親切にしてくれる店員が、その憐みが歯がゆかった。
家に着くまでの車の中で、母さんは父さんに電話を掛けた。父さんは母さんとは逆に笑い声を零した。そうして高い勉強代だなぁと呑気に零した。家に帰ったら両親を前に経緯を説明する必要があるだろう。考えると胃がキリキリと痛んだ。教室て大口叩いていても、実際には親に口答えなどできないのだ。不満を示すために黙ったり、文句を言うことはあれど、今回は百パーセント自分に悪い点があるので反抗しようもなかった。車窓に鏡のように反射する自分の顔を見ていると不甲斐なさで、また、泣きそうになる。対向車が窓を照らすたびに一瞬だけ強くなる自分の影は疲れ果てた顔をしていた。
玄関を跨ぐ。父さんが帰ってくるまでの間、母さんはキッチンで晩御飯を作っていた。その背中から、話しかけてはいけない雰囲気が十分に伝わってくる。ストレスを出し切るようにフライパンを大きく振っている。色鮮やかな具材たちが加熱されて段々と茶色に変っていく。
もう泣こうにも涙は出てこなかった。仕方がなく晩御飯が出てくるまでのテーブルに突っ伏していた。母さんと同じように、ぼくも誰にも話しかけられたくなかった。けれどもそんな沈黙を破るように、誰かがぼくの隣に座った。そうしてゆっくりと、腕が背中に回されたのがわかった。
「やっちまったなぁ、母さんカンカンだなぁ」
じいちゃんは僕の頭を撫でた。なんだかじいちゃんの顔が見たくなって、覆っていた腕から顔を半分だけ上げた。じいちゃんの眼には照明の光が差し込んでいた。しわがれた手がやけに重くのしかかった。
「じいちゃんごめん、ぼく、嘘ついてたんだ。本を買うなんて嘘だよ。ゲームを買いたかったんだ」
ぽつりぽつりと言葉を漏らしていく。友達が嘘を吐くように提案したこと、その誘惑に負けて実行してしまったこと、言い訳に聞こえないように話そうとした。けれども心は、友達が言わなかったら、だとか、爺ちゃんが断ってくれたら、とか他人に責任を被せるような良い方を選んでいく。その度に、本当に悪いのは僕で、と言い直す。直せば直すほどに罪悪感が存在を主張した。
「……じいちゃんもな、欲しいものを持ってない子どもだったんだよ」
お前が若い頃の自分に重なったのかもなぁ、とじいちゃんは言った。そうしてわしゃわしゃと頭を撫でる力が強くなった。ボサボサの髪の毛が数本抜けそうな勢いだ。少し痛みも感じたけれど、やめて、とは言えなかった。
「お前が嘘をついてるなんて知ってたよ。それでもお前のことを信じていたのさ」
じいちゃんはそう言って豪快に笑った。ぼくの涙も吹き飛ばすような笑いだった。でもその目には、涙が溜まっていた。泣かないように、我慢するために笑っていた。
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