ダニエル・キイス「アルジャーノンに花束を」感想

読書ノート

こんばんは。現在12月5日2:12です。
今日は別の作品を読もうと思っていたのですが、幸運なことに昼間から読んで、読み続けて。
気がついたらこんな時間でした。

しっかりと最後まで読んで、気持ちの整理がつかぬまま、記事を書いています。
感想という感想が書けなかったらごめんなさい。
きっとうまくまとまらないと思います。


ダニエル・キイス「アルジャーノンに花束を」感想

前回感想文のように作者についてまとめたり、あらすじを述べられる気分じゃなかったので、早速感想から。

ネタバレを含みますので、ご注意ください。

付箋を貼りながら読んでました。思い返したいシーンや台詞、感動した言葉の数々に付箋を貼っています。

徹頭徹尾、言い知れない感情が私の中でせめぎ起こる作品でした。

最初と最後の展開が対称的な物語構成もさることながら、主人公の知能の違和感なき変化を表現する文体も素晴らしいとしか言えませんでした。
日本語に「漢字」「カタカナ」「ひらがな」という三種類の文字が存在することも、この作品を読むうえで幸運だったと思えます。
ページを開いて、どの文字が多いかによって主人公チャーリィの知能が文章を読まなくても理解できてしまうのですから。

また日本語の良いところとして「一人称が多い」ことも、この作品に彩を添えていると思います。
「ぼく」しか使えなかったチャーリィから「私」「俺」「われわれ」と場面に応じて使い分ける天才への変貌は、目を離さずにはいられませんでした。

みんながぼくを笑っていたことがわかってよかったと思う。このことをよく考えてみた。それはぼくがとてもばかで自分がばかなことをしているのもわからないからだろう。ひとはばかな人間がみんなと同じようにできないとおかしいとおもうのだろう。

ハヤカワ文庫「アルジャーノンに花束を」81頁より引用

悲しいかな、チャーリィは物語の最後まで、純粋で、無垢であり続けようとした「人間」でした。
知能のある・なしで人間の権利は剥奪されるべきではない、というのが社会の一般常識です。
ところが実際には、誰もがそれを守っているわけではありません。

チャーリィは手術をして頭が良くなるほどに、チャーリィを人間だと思わない人間に気付いていきます。
玩具のように遊び、馬鹿にする友人やモルモットとして研究対象にする博士たち。
そして知能を身に着けたチャーリィ自身でさえ、手術前の自分を人間だと思っていないのでした。

「みんなとわらいたい」と手術を快諾したチャーリィ。
術後の急速な知能変化は、チャーリィから友人や職場といった人間関係を奪い、孤独にしていきます。
周囲の人間は天才になった彼を「傲慢」「皮肉屋」「自己中心的」「反社会的な手に負えないしろもの」と評価しました。
けれどチャーリィの望みは、願いは天才になった後も変わってはいないのです。
「みんなとわらいたい」
この願いは、言い換えれば「皆と同じ話題で、同じように語り合えるようになりたい」であるのです。
術前も術後も、チャーリィと「みんな」との距離は変わらないのでした。

知的障害者ですら、まわりの人のようになりたいと願っている。
幼児はわが身を養う方法も、食べるべきものを知らなくとも、飢えは知っている。

同書296頁より引用

この作品の素晴らしいところは、天才になったチャーリィに対して読者もまた凡人・凡才であることに否応なく理解させられることでしょう。
物語前半、五歳児の知能しか持たないチャーリィの「けえかほおこく」は読みづらさから、ついついイライラしてしまいます。
文章の構造や文字を理解した「経過報告」はスラスラと読めることでしょう。
ところがチャーリィが天才になってしまった後の文章は、文の表層をなぞり、全体を把握することはできても、個々の単語のつながりや文章の高度さに圧倒させられ、わかりづらさ故にイライラしてしまうのです。
凡人は天才を理解できず、天才は凡人に理解されたいと思うーその様子が物語の内外を繋ぎ、赤裸々に記されていました。

チャーリィの求めたものは「周囲からの理解」という名の「愛情」でした。

文章ラストにて、私が彼を哀れみ、かわいそうだと泣いたことも、ある意味では彼を完全に理解していないからこその現象であるのかもしれません。
北条民雄の作品「いのちの初夜」にて「同情ほど愛情から遠いものはない」と言われていたように、私がこの物語を読んで、チャーリィに抱く感情は愛情ではないのですから。

数日前に面白い言葉に出会いました。
「インターネット、SNSの発達で、私たちは同じ言語を話すけれども、理解し合えない、という存在があることに気が付いてしまった」
この気づきは昨今のアニメや物語の構成に表れていると続くのです。
そして「同じ言語を話すのに理解をし合えない存在」に対して、私たちはしばしば「排除」という手段を取ります。
無視をしたり、SNS機能を用いてブロックしたり。

チャーリィの場合はその「排除」というものが「拒否」や「批判」でありました。
彼は排除されている現状に対して以下のように申します。

知能は人間に与えられた最高の資質のひとつですよ。しかし知識を求める心が、愛情を求める心を排除してしまうことがあまりにも多いんです……(中略)……愛情を与えたり受け入れたりする能力がなければ、知能というものは精神的道徳的な崩壊をもたらし、神経症ないしは精神病すらひきおこすものである。つまりですねえ、自己中心的な目的でそれ自体に吸収されて、それ自体に関与するだけの心、人間関係の排除へと向かう心というものは、暴力と苦痛にしかつながらないということ。

同書364頁より引用

チャーリィは周囲の人間からも読者からも、理解という愛情を得られることは無いのだという現実がより一層、私たちをチャーリィから遠ざけていきます。

チャーリィは知能を得たことによって、他者への愛情をなくしたのでしょうか?
そんなことは無く、本当に最初から最後まで、他者と共にありたいと願う、無垢な人間だったのです。
そんな人間の最後がこのような形になってしまうのは、私は、くるしい。
この作品を書いたダニエル・キイスは心根が悪いと感じさせられてしまうほど。
(実際にはそんなことないのでしょうけどもね、そう言ってやりたくなります。)

兎にも角にも、これ以上は感情を言語化できそうにありません。
ここで感想を閉めたいと思います。

さいごに、この作品に出会えて本当に幸福でした。
ありがとうございました。


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