ブログ記事もようやく100記事目になりました! 何を書こうか悩んでいたのですが、読み終わった「風の谷のナウシカ」が素晴らしかったので、その感想と個人勝手な考察でも書いてみようかなと思います。
学術書や新書ばかりで殆ど娯楽という娯楽の無い大学図書館ですが、なぜか「風の谷のナウシカ」がありました。しかも全巻揃ってる!!!
多分どこかの学部の教授さんか図書室の方が入れてくれたんでしょう。
有難いことです。こういう少し古い漫画本などは入手が難しいと個人的に感じます。
勿論、金出せば手に入りますけれども。苦学生にとっては安易に買うという選択肢はできないもの。
図書館の本はそういう時にあると心が豊かになる気がします。
こののちの感想はネタバレ有になりますのでご注意いただけると幸いです。
「風の谷のナウシカ」感想 *ネタバレ有
読み始めてしばらくの内は随分と映画の内容との違いを探していたと思います。
トルメキア軍が風の谷にやってきた理由やアスベルとの会話、土鬼の人々、蟲使いの存在などですね。映画よりももっと広範で複雑な世界が広がっていたんだなぁと感じました。
クシャナ様の勇姿
映画の時は「何だこの人……」としか思わなかったクシャナ様。映画を見た時の私の読解力が低いせいもありますが、映画版だとかなり短縮されているので、やることなすこと、意味がよく分からない人だなという印象でした。
漫画版はすごいぞ!!!!!!
漫画版だとクシャナ様はいろんな人間関係に板挟みになりながら、自身の生存の道を探す人だったのだとわかります。
恐らく、戦争や玉座争いに巻き込まれていなければ立派な為政者になっていたのだと思います。
部下の死を惜しみ、不必要な殺生は出来る限り避けようとする人。悪逆非道な面持ちが出てしまうのは、戦争という情けを掛けられぬ時代に、最低限自国の民と部下だけでも救おうとした姿なのだとも感じました。
腰ぎんちゃくのようだったクロトワも、ただの腰抜けではなく、なんとか日和見の立ち位置で自身の生存を図っていた人だとわかります。父王もしくは兄たちが生き残るか、クシャナが生き残るか。どちらであっても自身の命が使い捨てられないように、日和見の立場でいる。使い捨てられたくはないので、どちらにも自身を囲うことで利があることは示しています。人間の醜さを集めた小物感がありますが、どうしても憎めないキャラクターです。
漫画を読んで一気にクシャナ様好きになりましたね……。というか、心なしか話が後半に行くにつれてクシャナ様の絵柄が可愛くなってませんか。最初の勇ましさと麗しさはどこに……?
トルメキアの強大さが話の主だった部分ではクシャナ様は滅茶苦茶怖い女の人。でしたが後半はトルメキア云々以上に世界の危機に瀕しているので、クシャナ様の力も無力に等しいんですよね。
だからか、ナウシカ同様、すこし幼い面立ちをしてらっしゃるように感じます。
私は別にフェミニストというわけではないのですが、芯の強い女のキャラクターが大好きなので、クシャナ様に惹かれてしまいますね。
部下の死には必ず悼む姿も。敵であれ憎い味方であれ、自身にない能力や秀逸さに敬意を示す姿も。
男(父兄)には負けない勇ましさも、それでいてナウシカのことを思いやる女性特有の思いやりも。
為政者として無慈悲で合理的な判断を行うことが出来ながら、民衆にも心があることを知っている人です。
世界の危機の前にはクシャナ様も無力なわけですが、それでも勇ましくナウシカを信じて立って待っているんですよね。仁王立ちがよくお似合いで。めっっっっっっちゃ好き。
複雑すぎる人間関係
戦争物、となれば大体の作品はそうですが、複雑すぎる人間関係、敵対関係が描かれています。
誰がどこの国と敵対していて、誰が何処と同盟を組んでいるのか、どこに何の利害関係があるのか……そういう人間関係が絡んでくるのが戦争なんだと思います。
「風の谷のナウシカ」は戦争やりながら、どっちの陣営でも権力争いしてるんですよね……。
クシャナ様は父兄と権力争いしてるし、土鬼側も兄弟で権力争いしてます。そこにおのおのの宗教まで絡んでくるわけです。人間の中だけで終われば良いものを、ロストテクノロジーや自然とのかかわりも出てくるので、難しい物語を生み出してるなぁと思ってしまいます。
私も小説書くの好きですけど、申し訳ないですけど、こんな複雑な話を書ける気がしないです。戦争を描くことも、そこに巻き込まれながらも生きようとするキャラクターを描くことも、創作者に戦争を生き抜くことができなければ描けない気がします。本当にすごい。
ここまで聞くと私の説明を聞くとかなーりしっちゃかめっちゃかですが、漫画版の「風の谷のナウシカ」はそういう人間関係の複雑さをストレスなく理解できるんですよね。すごい。登場人物も種族も宗教もすごく沢山出てくるのに、です。二巻目くらいでおおよその登場人物が出てきておおよその人間関係が理解できる。読解力ない私でも読める。しかも面白いんです。
前項のクシャナ様やクロトワの魅力って人間関係の中に光るものでもあるんですよね。
複雑な人間関係の中での立ち位置が彼らを魅力的にすると言いますか。
だから人間関係が理解できると彼らの面白さが際立ってくる。
みんな、使命がある……!
読み始めて最初は、風の谷の人が好きだなぁと感じていました。
谷の将来を託すために若い人を残して戦争へ行こうとするおじいちゃんたちも、無事を祈願するおばあちゃんたちも、子どもも、みんないい人ばかりです。風の谷の人たちは巻き込まれた側なのですが、それでもこの谷の人たちは隣人を家族のように大事にしてきた集落の人たちなんだと気付くことができます。
クシャナ様に関しては前項で述べた通りですね。どうしようもない状況でどうにかしようとしていた人だったので好きです。クシャナ様についていく部下の人たちも、クシャナ様を尊敬し、ナウシカを敬う優しさがある人達でした。
敵国のアスベルも土鬼の人々も蟲使いも、皆みんな大好きです。人間らしい醜さと激情を備えていて、それでも歩み寄ったり、時には善意を見せることができる。
ここまでキャラクターに対する好意を述べてきましたが、基本的にどのキャラクターも舞台装置として使い捨てにされていないことが素晴らしいなぁと感じます。キャラクターが死ねば、それが名前のないモブであっても悲しむ人がいて、悼む人がいて。逆に少しでも嬉しいことがあれば同じ感情を共有する。
物語の進行上、どうしてもキャラクター毎に物語を魅せるための使命が出てきてしまいますが、だれひとりとして使い捨てにされていない。ちゃんと人間として扱われているのが凄く好きだった部分です。
沢山の人や虫や自然が死ぬ物語ですが、誰一人として死んでいい人間はいなくて、それがちゃんと伝わってくる物語です。殺せばいい、消えればいい、という現代漫画は多いですが、やっぱりキャラクターであっても(実際に生きていなくとも)命は大切に扱ってほしいと思うのは傲慢でしょうか。
偏見有りの考察 *ネタバレ有
ここからは私の偏見マシマシの考察です。そんなん分かってるよ、とか何言ってんだおまえ、といった感想が出てくるかもしれませんが、考えたことを纏めているのだと思って温かい目で見ていただけると幸いです。考察が苦手な方はご注意ください!
ナウシカとクシャナ
すごく疑問だったのが、どうして最後に焦点を当てられているのがナウシカとクシャナの二人だったのか、ということでした。二人とも女性キャラなんですよね。ナウシカは主人公なのでともかくとして、クシャナに焦点が当てられているのは面白いと感じました。アスベルでもいいんじゃないかなーって。
所がアスベルは別の女の子とハグして再会を喜んでいます。あれれ、映画と違うぞ。
直前に読んでいたのが宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」だったので、そっちに引っ張られてしまう考察なのですが、女性として特徴的な二人だから焦点があてられたのかな、と考えていました。
「銀河鉄道の夜」ではかなりの頻度で「乳」が出てくるんです。牛乳だったり、母乳だったり。
「乳」って人間が生まれてから一番最初に口にするもので、つまりは生命力の原泉なんですね。だから死者が乗る銀河鉄道で天の川(ミルキーウェイ)を昇っていく。「乳」が出るのって女性なんですよね。
中学の時に合唱で歌う「大地讃頌」でも「母なる大地」と呼ばれていますよね。
保健体育の勉強としては勿論、男性と女性がいないと子孫が育まれていかないのは勿論なのですが。
それにしても、何かが生まれる、何かが始まる時は女性が引き合いに出されている気がする。それは「乳」と同じで「始まり」を育てるのは女性の役割だから。
(ここでジェンダー自由論の話はしないですよ。あくまで昔から始まりは女性だったというだけです)
こんなことをいうのも酷ですが、離乳食が食べられない赤子にはどうしたって母乳が必要になります。今は粉ミルクなど男性一人でも育てることができる世の中ですが、人間がまだ洞穴に住んでいた時代や刀を持っていた時代であればやっぱり女の人でなければ赤子を育てることは出来ません。
ナウシカは一度混沌に陥り、清浄されかけているこの世界での生き方を人々に教えた始まりの人。
クシャナは民主政治の基礎を築いた始まりの人となった。この二人によって人の住む世界が再び整えられていく、育てられていくということなんだと思います。そこに敢えて女性を選んだのは、女性に何かを始める役割があるからなんじゃないかな、という。半分以上希望的観測による考察です。
ロストテクノロジー?
終盤に蟲や腐海の森、そして現存する人間たちまでもがかつて地球を汚した人間の手によって生み出されたことを、ナウシカは知ります。それは汚れた地球を元に戻し、もう一度清浄な世界を取り戻すためでした。
なんだかこの地球も同じ世界線を辿りそうだな、とおもった考察です。
いまも太陽光発電のために田んぼや里山を無意味に切り開いたり、必要のない高層ビルを建てて空き家を増やしたりしています。人口が増え続けて、世界がどんどん汚れていった時、私達、いえ私達より頭のいい人たちが取る手段な気がしています。自分たちは安息の眠りについて、その間に自分が生み出したアンドロイドや人間たちが地球を綺麗にする。文明が滅んだときに再び目覚めて、先導者のように愚かな民衆を導こうとする。
SFのようですが、きっと近い未来なんだろうな、とも思っています。
地球を綺麗にする使命を勝手に託された人工の人間たちは、やがて神託や伝承を忘れて、同じ使命を持つアンドロイドたちを恐れ、一方で利用し、破壊したり、制御しようとしたりする。
このアンドロイドが蟲や腐海の森になったのがナウシカの世界なんでしょうね。
さて、王蟲や腐海の役割は後世のナウシカ達には上手く伝わっていなかったわけですが。口伝は残り辛いですからね。かといって文字を遣おうにも千年、万年先の未来で同じ言語が使われているとも限らない。
少し話がそれますが、高校時代に数万年先の未来の人に向けて、核のゴミを触らないための警告文をどう伝えるか、という動画を見ました。この人たちが悩んでいることと似ていますよね。
少し前に母が夏休みのジブリ金曜ロードショーを見ながら「ジブリって何年経っても古臭いと思わないからすごい」と言ってました。
ジブリが古臭く感じないのは、昔や別世界のことを描いているようで、実は今の私たちが進んでいく先の未来を見据えた作品が多いからではないかなぁと思います。
さて、長くなってしまいました。ひとまず思いついたことはこのぐらいでしょうか。
というか驚いたんですが、こんだけの内容で一冊500円程度、安い巻だと300円のものもあるんですね。この時代に買えて、読んでいた人が羨ましいです!!!!!
もっと書きたい気持ちもありますが記事自体が長くなりすぎてしまうので、今回はここまで。
読んでいただきありがとうございました!
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