大学の講義で、同性婚をめぐる制度について学ぶ機会があった。
その時、私の中に一つの問いが残った。
「同性婚という制度は、誰のどんな困りごとを解決するものなのだろう」
先に書いておくと、私は同性婚そのものを批判したいわけではない。
むしろ、制度を必要なものとして考えるためにこそ、その制度が何を救うのかを丁寧に見たいと思っている。
制度について学ぶ時、条文や判例、権利の有無を確認することはとても大切だ。
けれど、制度だけを見ていると、その向こう側にいる人の生活が見えにくくなることがある。
婚姻できないことで、実際に何が起きるのか。
医療同意、相続、税制や扶養、社会的承認、家族から認められないこと、孤立や偏見。
制度史を学ぶほど、私はその外側で生じる具体的な困りごとを知りたくなった。
制度は何のためにあるのだろうか
私は、人間が抱える問題を少しでも解決するために制度があるのだと思っている。
しかし、学べば学ぶほど、制度は決して完璧ではないこともわかる。
それは当然のことなのかもしれない。
制度は、その時代を生きる人間が作るものであり、その時代の人間が持つ限界もまた映し出してしまう。
それでも、一人でも多くの人を救うために、制度は少しずつ見直され、研究され、更新されていく。
今回考えたいのは、同性婚という制度が、同性カップルのどのような困りごとを解決しようとしているのか。
そして同時に、どのような問題は制度だけでは解決しきれないのか、ということである。
婚姻で解決できる問題と、できない問題
もちろん、婚姻によって改善されるものはある。
医療同意、相続、税制、扶養、住宅、職場の福利厚生。
こうした問題は、制度によって扱いやすい。
婚姻関係にあるかどうかが、手続きや権利の判断基準になる場面があるからだ。
たとえば、病院で家族として扱われること。
相手が亡くなった時に、財産や住まいをどう引き継ぐのか。
職場や行政の制度の中で、配偶者として認められるのか。
こうした問題は、婚姻制度が整うことで、かなり改善される可能性がある。
けれど、婚姻だけでは解決しきれない問題もある。
偏見、家族からの拒絶、孤立感、自己否定感。
これらは、法律上の関係が認められたとしても、すぐに消えるものではない。
もちろん、制度が変わることで社会の見方が少しずつ変わることはあると思う。
「法的に認められている」という事実が、誰かの安心につながることもあるだろう。
それでも、婚姻制度ができればすべての苦しさが消える、と考えてしまうのは少し違う気がする。
婚姻制度によって解決できる問題と、婚姻制度だけでは解決できない問題。
その二つを分けて考えないと、制度への期待が大きくなりすぎてしまうのではないかと思った。
だから私は、「同性婚が必要ない」と言いたいのではない。
むしろ逆で、同性婚を必要な制度として考えるためにこそ、それが何を解決し、何を解決しきれないのかを分けて考えたい。
「結婚している関係」だけが正当なのか
同性婚を認めることは、これまで婚姻制度から排除されてきた人たちを、その制度の中に含めるための議論である。
異性カップルには婚姻という選択肢があり、同性カップルにはそれが認められていない。
その状態は、選択肢の有無という点で不平等だと私は思う。
だから、同性婚を認めること自体は重要なことだと考えている。
ただ、そのうえで、もう一つ考えたいことがある。
それは、法的な保護があまりにも婚姻に集中しているのではないか、ということだ。
人間の親密な関係は、婚姻だけではない。
友人同士の共同生活、介護やケアを伴う関係、血縁や婚姻では説明しにくい支え合い。
社会の中には、「家族」と呼ぶには少し迷うけれど、確かに生活を支えている関係がある。
しかし、制度の中では、婚姻関係にあるかどうかが大きな境界線になりやすい。
医療、相続、住まい、扶養、福利厚生。
さまざまな場面で、「結婚している関係」であることが、法的に保護されるための入口になっている。
もちろん、だから同性婚が必要ないと言いたいのではない。
むしろ、婚姻にこれほど多くの保護が結びついているからこそ、同性カップルだけがそこから排除されることは大きな問題になる。
けれど同時に、私はそこで立ち止まりたくもなった。
同性婚を認めることは、婚姻制度から排除されてきた人を含めるための大切な一歩である。
一方で、その議論を通して見えてくるのは、
「そもそもなぜ、法的保護はこれほど婚姻に集中しているのだろう」
という問いでもある。
結婚している関係だけが、正式な関係なのだろうか。
結婚という形を取らない親密さや支え合いは、制度の外側に置かれたままでよいのだろうか。
同性婚について考えることは、婚姻制度に誰を含めるかを考えることでもある。
そして同時に、婚姻という制度だけで、人間の関係をどこまで支えられるのかを考えることでもあるのだと思う。

私が制度について考える時の癖
DVについて研究しているからか、私は制度というものに、限界と同時に可能性を感じている。
制度は万能ではない。
どれほど整えられた制度であっても、そこからこぼれ落ちてしまう人はいる。
制度があるのに使えない人、制度の存在を知らない人、制度にたどり着く前に諦めてしまう人もいる。
けれど、だから制度が無意味だとは思わない。
むしろ、制度があることで救われる人は確かにいる。
名前のなかった困りごとに名前を与え、個人の苦しみを社会の問題として扱えるようにする力が、制度にはある。
だから私は、制度について考える時、制度そのものよりも先に、その前にいる人間を見たくなるのだと思う。
その人は何に困っているのか。
何を奪われているのか。
その制度によって、どこまで救われるのか。
そして、制度だけでは救われないものは何なのか。
今回、同性婚について考えた時に私が抱いた違和感も、同性婚への反対ではない。
むしろ逆である。
同性婚を必要な制度として考えるためにこそ、その制度が誰の、どんな困りごとを救うのかを丁寧に見たいと思った。
婚姻できないことで生じる不利益は、確かにある。
医療同意、相続、税制、扶養、住まい、職場の福利厚生。
こうした問題は、婚姻制度によって改善される可能性がある。
一方で、偏見や孤立、家族からの拒絶、自己否定感のように、婚姻だけでは解決しきれない問題もある。
制度が変わることで社会の見方が変わることはあるとしても、制度ができた瞬間に、すべての苦しみが消えるわけではない。
だからこそ、私は制度と困りごとの接続を見たい。
制度が必要かどうかを考える時、条文や判例だけではなく、その制度の向こう側にいる人の生活を見たい。
制度の正しさや権威によって、本当に困っている人の声がかき消されてしまわないようにしたい。
制度は、人間の問題を解決するためにある。
そう考えるなら、制度を語る時には、その制度が何を救い、何を救いきれないのかを問い続ける必要があるのだと思う。
同性婚について考えることは、私にとって、単に賛成か反対かを決めることではなかった。
制度が人を救うとはどういうことなのか。
そして、制度だけでは救いきれない人間の困りごとに、どう目を向けるのか。
その問いを、もう一度考えるための入口だった。


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